★前回は私という一個の存在を藉りて過去に列る私の「生命の延長」である父祖と、未来に続く「生命の延長」の子孫について触れたが、別の角度から考えてみよう。
旧約聖書式だと、人類の祖はアダムとイブの二人だつた。それが三十何億人の今日になり、さらにふえてゆくだろう。私ら小学校の頃の唱歌では「同胞すべて六千万」だつた。当時は勿論朝鮮、台湾、樺太を含めての人口である。それが二千万人の朝鮮をはじめ、台湾、樺太などを失つた日本列島だけで一億になっているし、昔流行歌で「支那にゃ四億の民がある」と歌ったものが、今では中共で六億以上にもなる。貧乏人の子沢山といって貧しい暮しをしているような後進国民ほど人口がふえてゆく。よくしたもので、動植物は高等化すればするほど繁殖率が減ってゆく、下等化すればするほど繁殖率が強い。カボチャでも肥料が多いと仇花ばかりで実がならぬ。そこで茎を裂いてやったりすると「それ大変だ、母体が参る、子孫を残さにゃならぬ」とあわてふためいて実を結ぶ―こんな例も戦時中よく経験したものだ。人類が滅びさったあとで地球を占領するものは蟻だ―といわれるが、そうかも知れぬ。人類とて繁殖の限界点へいくと今度は減りはじめるだろう。今のところはふえる一方だが、万物の霊長と称する人類は自己の運命を予測することが出来ない。第一、人体自体のことについてもよく判っていない。もし判っているという人があったらお訊ねしたいが、私ら男性にも二つのオッパイがある、これは何のためについているのか、猿類以前の動物時代に男性も赤ちゃんを生んだという記念品なのか、丁度シッポの痕が尾底骨であるというように何か授乳の役割をしていたという証拠なのであろうか。尤も男性だったものが手術の結果、女性に早や替りして結構女性になりきった身体として活用されているという実例を外電が時々伝えられているから男性の乳房は伊達や粋興で胸の両方についているのでもあるまい。まだどの学者も「男性にも乳房がなぜちゃんと二つづつあるか」ということを解明した大論文を発表していないから、人体についてよく知っているという御仁は一つ研究結果を教えていただきたいものだ。
★序だから触れておくが、人間でも犬でも猫でも、鳥でも魚でも虫でも、目玉を二つづつ持っている。一つとか三つとかでなく、二つに限られている。しかも背中に一つ、お尻に一つとかいうのでなくて、首から上に、右と左に並んでついている。こんなに重宝なものなら、顔の前に左右に並べずに、顔の前と後とか、同じ顔面なら上下とかについていてもよさそうなものだ。もっとオマケして背中に一つ、手足にも一つづつ―という風にあってもよかりそうなものだが、動物はみな一様に二つづつ首から上につけている。祖先が同一だったシルシだというのなら、手足が翼になったりヒレになったり、あるいは蛇なんかのように蛇腹になって、変に足でもつけようものなら「蛇足」だなんて人間共に笑われてしもう―そういうのはどうなんだ。えらそうなことをいってみたところで何も判っていやしないのだ。私の父や兄や叔父、叔母を殺した胃癌のモトにしてみても、癌はヴィルスだ、いや組織だといっているだけでまだ正体が判らない。
★人間は木石でない、というて自慢して木石を非情にしているが、木石はモノをいわないだけの話だ。植物だってピンからキリまでで、虫を捕えて食う草もあれば小動物を抱き込んで溶かして消化する木だってある。植物には植物の生き方や一つの意志とでもいうべきものがある。石だって生きているのだ。科学的にいわぬと誰も承知しない現代だから科学的にいうべきだろうが、今は科学者ほどにいえる知識もないし、生半かじりの知識を並べている暇もない。ただ原子核の問題からいっても非情であるはづの石の内部には無数の素粒子が充満し、陽子、中性子、電子が活躍している位のことは常識的の知識になっている。内外の因子が結合したら石変じて何になるやら知れたものでない。
石は別として、上は人間から下はアミーバー、ヴィールスに至るまで、生きとし生ける「生命」体は、一体何を望み何を求めて「生」の営みを続けているのであろう。それぞれは生存の条件に適応して最善をつくしているが、めざしているものは個体は個体の保存であり種族の繁栄だ。二大本能の食慾と性慾がすべての生物にあるとみていいだろう。アミーバーのように細胞の分裂によって繁殖するものには性慾なんてあるものか、といえばそれまでだが、それは人間サマの推測であってアミーバーに聞いてみたら「大いにある」と答えるかも知れない。植物にしたって、ただ装飾のために美しい花を開きいや、雄芯雌芯や花粉の問題解決のために美しい彩りの花弁と甘い蜜で蜂や蝶を誘惑したり、風に媒介して貰うために花粉を飛び易いようにしたり、鳥獣に種子をばらまいて貰うために甘い果実でデザインしたり…していると見るのは第三者の見方で、そこに至るまでに動物共の判らぬ性慾、といっては語弊があるが、植物でなければ判らぬ「性の秘密」があるというかも知れない。まして食慾においておやである。生きるため、個体の維持のためには食慾、少くも栄養を摂取しようとする動きが大事だが、それとて子孫を残すための前提だといえるだろう。私らを蝕んで死へ追いやるヴィールスどもにしても色々様々で、他のヴィールスを食って生きているのもいる。
一体、誰がこんな仕掛にしたというのだろうか。生命の根源は核酸だということだが、その核酸なるもののもつ活動力の根源はどうして出来たのか。不可解にしてお預けにしておくほかはなかろう。
★適者生存、優勝劣敗はダーウィンの進化論をはじめ科学者の定石だが、そして生物は生活環境に応じて生存に適するように変化進展する、ということになっているが、そうする、あるいはそうせざるを得ない、目にみえない大きな意志、無意識の意志(本能といっていいが)はどうして出来たのだろうか。
私は大分前に某小学校へ講演にゆき応接室で一人時間をすごしている間、窓のふちに立って蜘蛛の巣を眺めていた。せっせと糸を出して幾何模様の美しい網を張っている蜘蛛は、いつ餌にありつけるだろうか、一生ありつけずに終るかも知れんな―などと思ってみていた。すると蜘蛛より大き目の蛾が一匹網に引っかかった、途端に蜘蛛はすばやく襲いかかりばたばたもがいて網を破って逃げようとする蛾をぐるぐる糸でまきつけ、やがて蛾の血を吸いはじめた。みるみるうちに蜘蛛のからだは倍以上にふくれあがり、蛾は痩せ果ててしまった。よせばいいのに、満腹した蜘蛛は身体の重みに堪えかねてか、すーっと糸をひいて下の地面へおりていった。すると、である。程遠からぬところに、蜘蛛にとって不運にも一匹の蛙がいた。くるりと向きをかえたと思った途端、その蛙はぴょんぴょん二回ほど飛んで来て、パクリとその蜘蛛をのみこんでしまった。蛾が蜘蛛の巣にかかってから数分とたたぬ間のできごとであった。もしそこに蛇がいたら、こんどはアッという間に蛙が蛇の腹中におさまったことだろう。弱肉強食のすさまじさを目のあたりみて慄然として唾をゴクリをのみこみ、窓を離れて目をつぶった。こういうことは刻々瞬時も絶え間なく至るところで行われ、それが至極自然の姿とされているのだが、蛾にしろ蜘蛛にしろ蛙にしろ、だが食慾と性慾の二大本能に支配されて動いているだけのことだ。そこには善もなければ悪もなく、美もなければ醜もないだろう。いや見方によればすべて善であり美であるかも知れない。自然に随順することが善であり美であるという人間の見方からすれば……である。つまり、人間以外の生物は「生きる」ということがすべてで、それ以外であっては、その生物の存在意義がないであろう。だからその生存を拒否されるとなると極力抵抗する。動物は勿論、植物だってそうだ。雑草の生命力の強さをみるがいい。舗装の割れ目から芽を出し、ついに固い舗装を持ちあげたりしている雑草を見受けるだろう。路傍の車前草だって大きくなると根こそぎ抜きとることは容易でない。一尾の小魚でも水から離れさせる場合必死に逃げようと暴れる。殺される寸前の動物の物凄い抵抗、死への恐怖の悲鳴、これは御存じの通りだ。ただ「生きる」だけの存在とみられ「何のために生き、生きようとするのか」と思われる動物たちは、何ごともない間は太平楽を並べているようだが「個」として、あるいは「全」として死を本能的に直感すると「生」にしがみつこうとして全力をあげる。それを単に本能と片づけて済ませておいていいものだろうか。動物、植物と簡単にいうが、その中間のものもあるし、肉食動物もあれば、海藻と寸分違わぬような動物だっている。もとは一つだから当然だし、一つのものから分化し、進化し、千変万化して今日に至ったというが、なぜそういう一つの生命が千変万化してゆくのか、環境に適応して生存するために―というが、そうならざるを得ない必然性の根本になると、それはもはや科学の世界でなく哲学の世界でなければならなくなってくる。
地下水をポンプで汲みあげることの出来る高さは十メートルが限界だそうだが百メートルもそそりたつ大木の体内を水が吸いあげられて梢の先まで達してゆくその逞しい生命力は毛細管の力とか引力の問題とかで説明できても、生命力のもつ神秘の解明にはならない。
あの大きな鯨は巨体の故に地上で餌が不足のため、ついに海に棲み、魚の形になったというが(昔、この鯨の思いを詩にかいたことがあるので古い同人は覚えておいでだろう)その「生きる」ためのチエも本能だけで片づけられない。鳥のマネをしているコウモリにしたってそうでないか。
★古い民謡に「山が焼けるに なぜキジたたぬ これがたたりょか 子をおいて」というのがあるが、キジが子を守り助けるために、わざと身を敵の前にさらす危険を敢てする。キジばかりでなく、多くの動物は子を助けるために一身をすてる。
これは記録映画などでよく見受ける場面である。また反対に射たれた親の死体を慕うて子が離れぬ動物の姿も映画などがみせてくれた。こういう親子の情愛というものも本能で片づけられるものだろうか。生命の延長である親子の間だけでなく、一夫一婦制の鳥獣の間の雌雄の情愛についてもそれがいえる。忠犬ハチ公等の場合にしても然りで、本能で片づけられぬ大きなものが問題だ。
(8・23)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 十一月号 復刊49号 通巻149号 1964
北日本文苑詩と民謡社