随筆

「早川嘉一君滞京記(上) 東京での会合と人など」

★本誌を創刊したのは昭和五年一月だから35周年に当る正月、記念にという訳でないが、東京へ早川嘉一君を招いて慰労激励会を開こうということになったのは昨秋である。昨秋、民謡誌「時雨」を一人で出している羽田松雄氏と池袋駅前で約3時間歓談した折、羽田氏は「時雨百号を正月に出すが、友人が百号記念会を開くというので、その時、富山から山岸曙光、早川嘉一両兄を招きたい」という話があり、「山岸君の上京は難しいが、早川君なら都合できよう」と返事しておいた。後、能村潔、宮崎健三両氏と「三人放談会」を二回開いた折「同人、社友が百人以上いるうち、関東地区に三十数人いる。富山では時々会合を開いているが関東地区の同人同志、まだ顔を合わせていないから、時々関東地区同人会を開こう」ということになった。また宮崎健三氏と私が藤森ゆき、早川数江両女史に招かれて武蔵野の俤を残す深大寺、神代自然植物園へ清遊した折。是非集ままろうときまった。そこで関東同人、社友懇親会は早川君の歓迎第一回の慰労会と、社内だけの能村潔氏詩集「反骨」出版祝を兼ねることにした。能村氏の「反骨」祝賀会は昨秋富山で開かれる予定のところ、都合で延期になったので、宮崎氏と共に能村氏に「お祝いは何度やってもいい。何も富山でだけ開かねばならぬという法はない。東京でも開きたいが……と度々申し出たが、人の事なら骨身惜しまず世話しても御自分の事となると「人様に迷惑かけるから」と遠慮深い能村氏、中々うんといわない。宮崎氏宅での「三人放談会」で、やっと社内だけの祝賀会開催のお許しを得たというわけだ。しかも能村氏令息御夫妻は今夏8月米国留学から帰国されるので普通の「反骨」祝賀会は、令息御夫妻を迎えて今秋東京で開きたいのである。「反骨」は渡米される令息のために出版された詩集だからである。
★あれやこれやで日時、会場について能村、宮崎氏の配意もあったが、12月下旬、羽田氏の「時雨百号記念会が1月24日正午池袋駅前三越で開かれることが判ったので、羽田氏の会に同人数人も出席するだろうからと、時間をずらして同夕方に銀座サッボロビヤホールで開くことにした。上野の精養軒等も考えたが、放歌乱舞できない。録座のサッボロビヤボールなら同人多数が常任理事などをしている日本歌謡芸術協会の巣みたいな恒例会場で馴染が深いし、東京のド真中でも新橋・有楽町両駅から近いし、散会後、夜の銀座散歩も悪くなかろうと考えたわけ。会場の設管は顔の利く古谷玲児君に頼んだところ二階奧の特別室を予約しておいてくれた。席料五千円~七千円の特別室をタダにさせたから古谷君もエライもんだ。
★本誌創刊当時の発行部数は三百部だったが、戦後、早川君があとを引きうけてくれてから月刊にし部数も千部に伸ばしてくれた。朝日新聞(大阪)など、いつも褒めて紹介してくれるので、全国各地から誌代を前納して購読を申し込んでくる読者が絶えないが、一に早川君のおかげだ。早川君は右眼全く見えず、左眼は視力〇・〇二(タオル二枚あててみる程度、明暗が判るだけ)だから、字は読めず、和子夫人らが代読する。字は書くが途中でペンをおくとどこまで書いたか、タメツ、スがメツして辿らぬと字が飛び雑れたり重複したりするから大変だ。通信、編集、割り付け、発送やら、一々ハイヤーに乗っての広告取りやら集金やらさては会合の世話等々、一人でしている上、赤字は自腹を切って埋め合わせている。息子さんなんか「一文にもならぬどころか、反対に損をする詩の雑誌をやめなさい」と切言されたというのは当然だ。近年早川君の生命がけのこの仕事を理解して激励して下さっているそうだから、内助の功多い和子夫人や令息方にも感謝のほかない。雪深い富山という田舎の一同人雑誌にすぎぬのだから創刊以来赤字続きは当然の話。同人も百人以上いるが、同人費を納める人は半数位だろう。馬鹿か物好きでなければ同人雑誌なんて続けられるものでない。尤も一文にもならぬどころか、同人費を出して詩を書いている面々は、世間からみれば「馬鹿」の方だろう。この「馬鹿」こそ小利功者氾溢の時代に貴重な存在なんだが…
★さて、幸いなことに、早川君の第二の故郷ともいうべき大阪に居られる早川君の長男嘉宥君に12月18日長男嘉郎ちやん生れた。早川君初孫(令息は五人で娘さんはない)の顔を見に正月中旬大阪へゆくというて来たので、その足で岐阜などへ寄り上京するように、少くも23日に小宅へ着くようにと連絡した。次に別の早川君激励会を私の都合で1月31日夕方同じビヤホールで開くことにし、この設営も古谷玲児君に頼んだ。24日の案内状は40枚(岐阜の大野加牛、岩間純、名古屋の遠藤春汀等の諸君へも)31日の案内状は一二〇枚出した。31日の案内状は足らなくなったので案内洩れが相当出た。あとで「折角早川君が上京したのになぜ知らせてくれなかったのか」と知友から叱られたが、詫びるより他ない。24日の会の司会は古谷玲児、高橋真吉両君、受付は藤森ゆき、宮崎健三、早川数江の三氏に頼んだ。31日の会の司会は古谷、高橋両君では呑ン平の両君、一杯ノム暇もなかろうから気の毒と思い、名司会者といわれ、酒も煙草ものまぬ日本歌謡芸術協会常任理事・事務局長の綱島嘉之助氏、(武田薬品秘書室長)に頼み、受付は同協会常任理事・編集委員の花沢豊君に頼んだ。
★早川君は1月14日和子夫人と五男雅己君(高校二年)と共に大阪へ行き、18日一旦帰富、23日早朝上野駅へ着いた。和子夫人慰労の意味もあり同道するように繰り返し手紙を出しておいたが、通勤・通学の令息ばかりを家に置いて何週間も旅に出られない、とあっては致し方もない。家内に案内されて小宅へ安着の早川君の顔をみて一安心。まず祝盃だ。正午ごろ古谷君、24日の会の打合せに一本ぶら下げて来る。早川君が大阪で吉沢独陽、前田勇、池永治雄、諸氏と久々に歓談した話や山内隆、藤本浩一、藤村青一等々の諸氏の消息など話は尽きない。夜、松村又一氏から「24日大阪へゆくので31日は出られない。25日あいたい」と電話あり、時間と場所を打ち合わせる。何しろ早川君の上京は久しぶり。といっても六年前、私が赤羽の大橋病院に入院療養中わざわざ見舞に単身上京しどこへも寄らず一泊して帰って行ったので、公式の上京は初めてといってよかろう。あちらこちから早川君招待の手紙やら電話が来ているが、日程不明で、返事の仕様もない。
羽田松雄氏激励の会 24日(日)正午から近くの池袋駅前三越7階別室で開かれる羽田松雄氏激励会へ出る。羽田氏は劇務の中を、一人で編集し、ガリ版を切り印刷製本発送をやり、毎号巻頭言、作品等を書いて純民謡誌「時雨」を百号まで出し(費用一切自腹切って)た聖人みたいな人だ。酒も煙草ものまぬところ、綱島嘉之助氏同様(三井良尚氏は酒はのまぬが煙草だけはのむ)だ。その羽田氏激励会として坂口淳、都築益世、広瀬充、松本帆平、高田三九三、島田磬也、山崎八郎、槙恵二郎等々の諸氏に島田ばく君(小野忠孝君教え子で昨秋詩集「日溜りの中に」を出したが、所謂詩壇とは没交渉の工場主なので小野君から頼まれ、諸会合へ顔を出すように奨めている。
 それで羽田氏らに無断だったが誘っておいた)それに本誌同人の藤田日出雄、三井良尚、中山平治、高橋真吉、志村士郎や社友の徳永隆平等々、二十五人の盛況ぶり。三井良尚氏から秘蔵の時価何十万円かするという河村蜻山作四方額皿が有志一同の名で、奉書紙に三井氏が書いた感謝状と共に代表者坂口淳氏から羽田氏へ贈られ、羽田氏涙ぐむ。ビール・洋食を共にしながら各自、羽田氏への真心こもる激励の言葉が述べられたが、半数ほど併せて早川君をも賞讃。
 早川君面くらい恐縮していたが、私も内心「羽田氏への感謝の会なのに……これは申訳ないことになった」と羽田氏に済まぬ気持だった。広瀬充氏「これから中野武彦君を訪ねる」というので「そのうち早川君とゆく、と云って置いて…」とことづける。都築益世、高田三九三氏ら31日に出席したいとある。三時頃賑やかに散会。その足で高橋真吉君の自動車で中山平治氏、早川君と共に銀座へ。
関東地区同人・社友の会 銀座のサッポロビヤホールについたのは三時半。一番乗りだ。やがて陸続と到来。受付に早川数江女史の諸嬢が引き受ける。何しろ初顔合わせだが、作品や文通を通じての仲間同志だから「一見十年知己の如し」だ茨城から風邪気味の沢ゆきさんも遙々出席だ(沢さんは能村潔氏序で詩集近刊とある)古谷高橋両君交互の司会で、私が簡単に挨拶し、最年長者沢ゆきさんの音頭で乾盃、開宴。自己紹介にあわせて能村、早川両氏への言葉を贈る。飲む程に酔う程に歌など続出。宴半ばに正月から社友になったばかりの久慈正夫君、東宝の舞台装置で忙しい中を脱け出して来たと座を賑わす。羽田氏の会で既にいい機嫌の私、早川数江前調布市議から時々「議事妨害」と叱られ、興加わる。気の毒なのはコカコーラだけ口にしてニコニコしている藤田日出雄氏と、何も口にせずに受付席で淑やかに控えている数江女史のお嬢さん。数江女史「社に早川嘉一、故早川孝吉、早川数江と、早川姓が三人あれど三人とも親類でもなく血のつながらぬ他人」と説明したので、数江女史を嘉一君夫人とばかり思いこんでいた多くの人々ガッカリしたような顔をし、爆笑。高岡のくらたゆかりさんから「お集まり遙かに嬉しくお目出度う」の祝電が仲間入りする。出席通知のあった坂田浩一郞、泉漾太郎飯島英一氏らを待ったが、時間もたったので記念撮影をする。(この記念撮影は北日本新聞東京支社の面高カメラマンに頼んだのだが、記念写真に不馴れだったので失敗し、佐々木竜之君が撮影漏れ、徳永隆平君らは顔がちょっぴりーとなり申訳ない)やがて主賓能村潔氏ら、早川君の謝辞あり、沢ゆき、藤田日出雄、中山平治、寺内邦三氏ら遠路の人もいるので四時間半に及ぶ会を閉じたのは夜八時半。階上階下ともお客一人も居らず後片づけ中とあり、裏口から出て再会を約し名残りを惜しみあう。次回は竹岡範男君の伊豆下田か、沢ゆきさんの茨城竜ヶ崎あたりで開こうという話になった。出席者は次の通り。(順不同)
 能村潔、早川嘉一、沢ゆき、藤森ゆき、藤田日出雄、宮崎健三、中山平治、島田信義、古谷玲児、高橋真吉、本多方子、細谷朝子、三橋美江、大和ミエ子、竹岡範男、佐々木竜之、徳永隆平、志村士郎、早川数江、寺内邦三、木古内豪、鷲森かずさ、安田征郎、池川富子(池川さんは徳永隆平社長、羽田松雄副社長の「紙業経済新聞」及び「紀行文学」「紀行」編集長)、久慈正夫
 なお、出席予定の人々から次のような事情で欠席したという音信があった。
 ◇泉漾太郎(近親者が脳溢血で急逝)◇岩間純(急用で岐阜へ帰る)◇坂田浩一郞(急用ができ熱海へ飛ぶ)◇鈴木勝(船橋での恩師の喜寿祝賀会で時間がなくなった)
 また欠席の人々は次のような事情を述べ「皆さんによろしく」とあった。
 ◇大野加牛(令息の結婚・見合の日のため)◇源氏鶏太(どうにも都合つかず)◇白井早苗(身体をこわして)◇山田弘(十七日夜長男誕生、二十四日母子産院を退院のため)
 さて、閉会後、夜の銀座散歩と酒落込み、三月二十八日午後二時結婚する小田原の細谷朝子さんと新橋駅近くで別れ、古谷君の招待でハワイウエーに面する全線座付近のサッポロビヤホール支店に入り
(以下次号つづく)

関東地区同人、社友懇親会、能村潔氏詩集「反骨」祝賀兼早川嘉一君歓迎会
(昭和四十年一月二四日午後六時、於銀座サツボロビヤホール階上特別室)
【前列右から】沢ゆき、能村潔、早川嘉一、藤森ゆき諸氏。
【中列右から】古谷玲児、木古内豪、志村士郎、徳永隆平(顔半分の人)寺内邦三、大和ミエ子、鷲森かずさ(顔半分の人)島田信義、竹岡範男(この御両人の間に片目だけみえるのは遠慮深いため損した佐々木竜之氏)中山平治、久慈正夫、早川数江、本多方子(左頬隠れた人)宮崎健三、藤田日出雄、中山輝、安田征郎、池川富子諸氏。
【後列右から】高橋真吉、三橋美江、細谷朝子諸氏。
【註】中列右の方、古谷、寺内、大和氏らのところ誤記したかも知れない。何しろよく似た眼鏡の神士ずらりで……(中山)

早川嘉一激励会記念撮影
(昭和40年1月31日夕5時半、於銀座サツボロビヤホール階上)
【前列右から】能村潔、中河兵一、服部嘉香、早川嘉一、白鳥省吾夫人、館美保子、藤田健次、安部宙之介、広瀬充、川上幸平の諸氏。
【中列右から】天彦五男、槙恵二郎、羽田松雄、松本帆平、南江治郎、添田知通、島田芳文、畠山清行(顔半分の人)恩田幸夫、長田恒雄、橋本恒美、月原橙一郎、島田信義、伊福部隆彦、藪田義雄(両頬隠れている人)玉置光三、藤田正人(瞑目の人)古茂田信男、笠井雅春、松坂直美、渋谷白涙、寺内邦三、穂曽谷秀雄(両頬一寸隠れている人)早川数江、中山輝、宮崎健三の諸氏。
【後列右から】森山隆平、三井良尚、永井鱗太郎、高橋掬太郎、島田ばく、生井英介、松本富夫、五味清花、木村徳久、小林潤、島田磬也、綱島嘉之助、花沢豊の諸氏。
【註】島来展也氏は急用できてこの挨拶の寸前に辞去されたので写っていないのは残念である。

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第23巻 二・三月合併号 復刊52号 通巻152号 1965
北日本文苑詩と民謡社