★亡母は幼い私らに「酒のむな、借金するな、泥棒するな」の三戒を口癖にしていた。亡父は酒をのまぬと無口の善人だが、酔うと酒乱気味でサァベル引きぬいて「貴様ら殺してやる」と駐在所の中で母を追いかけ廻すので、母は妹を背に私を抱えて逃げ廻った揚句、隣家へ避難して一夜を明かしたそうだ。母が私らをつれて朝帰ると父は「玄関に鍵をかけておいても裏口から入れるようになっとるのになぜ泊ってきた。この次から表口から逃げだして裏口から戻ってこい」といったそうだ。母の第一戒は呑ん兵衛の亡父に懲りてのものだった。第二戒は小金を人に貸した後から忘れるか、返してくれということができぬ性分なので借金苦を知らなかった母だが、借り主から弁解をきくと、借金する身の辛さが判ってくるので第二戒にしたもの、第三戒は泥棒を捕えるのが父の職業だからだ。親不孝にも二戒を破ったが、母が黙認したので天下晴れて亡父の伝を継いて呑ん兵衛になっている。借金の方は近年まで自分のためでなく他人様を救うためが殆んどで、最後に他人様のために丸裸になってしまい「また保証の判を押されては」と実印を義兄が保管してしまった。貧乏に生れ貧乏に育ち貧乏な癖に自分より貧乏な知人が一家心中寸前の窮地に陥っていると泣きついてくると「金ですむことなら」とつい借金してやったり、保証人になったり(貸主は本人より私を信用して貸してくれた)等々だが、心ある人々にいわせると、私の犠牲で救われた筈の人々は私の甘ちゃんぶりを利用しただけで、そう有難いと思っていないそうだ。道理でそういう連中の殆んどは年賀状一枚よこさない。「まァいいさ、一時にしろ相手が助かったんだから」と自己満足しているが高価な自己満足だと苦笑の他ない。ところが、私のこういう「人を信じすぎ同情しすぎる」ことが一つの社会悪だと周囲の人々に叱られている。それは相手の人々に益々「世の中って甘いもんだ」と思いこませることになるからで、「過ぎたるは及ばざるがごとし」であり、信じ同情してもいいが「過ぎるな。寛厳のケジメをはっきりつけろ」というわけ。(その点、早川嘉一君などは私にとって大事な大久保彦左の一人だ。)
★他人様のための借金は家内らを泣かせて皆済したが、後廻しにした自分のための借金はまだ山程残っている。少しづつでも返そうと片時も忘れたことがないのだが「無理せんでもいい。別に食うに困ってないから」というG氏らの好意に甘えているものの「有る時払いの催促なし」だけに、しかもそれぞれ大金であるだけによけい辛い。亡母の「借金するな」の戒めを人生の終りに近づいて泌々かみしめている。これ以上、借金したくとも誰も貸してくれぬから現在の借金で終りだ。尤も返さねばならぬ借金を背負っていると、病気中でも怠ける訳にいかないという張り合いがある。借金を皆済し少し金でもたまると、一文にもならぬことに本腰を入れたいと夢みて楽しんでいる。
★亡母の三戒目の泥棒のことだが、私の今までは「騙され人生」なので周囲の人々の「人をみたら泥棒と思え」の戒めを心がけることにしているが、生き馬の眼を抜くという東京にいても、持って生れた性分は死ななきゃ直らぬとみえて容易ではない。二年入院していた赤羽の大橋病院で枕元に聖書を飾り患者自治会の役員をしている同年輩の同室の患者(私と二人だけ)を信用しすぎたために、田舎から送ってきたままにしておいた柳行李一杯の洋服類から布団(夏なので片づけておいた)靴、さては兄が貸してくれたポケット用トランジスターラジオ(あまり聞かぬのでしまっておいた)まで、ベットを並べているその男にごっそり盗まれた。いつ次々持ちだしたのか知らず、本人が行方不明になり、他の被害患者が騒ぎ出し、質屋から足がついて刑事連中に聞かされてやっと気がついた。一番の被害者は私だったが、幸いラジオ以外は質屋から戻った。尤も何度も交渉の末、私と質屋と両損ということにして貰った。その上「田舎から親類の人が十年ぶりででてくるので東京見物させたい。一日だけ時計を貸してほしい」というので貸した腕時計(十年前二万八千円かで買ったもの)まで持ち逃げされた。この時計もあとで質屋から買い戻した。赤羽署へ参考人に呼ばれて手錠をはめヒゲだらけの本人にあった途端、思わず涙がこぼれたが、本人は「すみません」と微笑して頭を下げただけだった。信用していた者に裏切られた淋しさを抱いてシヨンボリ病室へ帰り、空いたままの隣のベットを何日か眺めてすごした自分が哀れだった。看護婦連中その後時々曰く「よく身体も盗まれなかったわネ。アンタ人がいいからおしまいに心も盗まれるわヨ。オホホ……」(3・31)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第23巻 四月号 復刊53号 通巻153号 1965
北日本文苑詩と民謡社