随筆

「流行唄について」

 「びやぼん」節の變身たる「ぎつちよんちよん」節、書生節、ダイナマイト節、「どんどん」乃至「東雲」或はデカルト、カント、ショーペンハウエルからきたといふデカンショ節(中桐確太郎氏の言)を経て日露戦役後頽廃氣分の横溢と共に新派劇に伴ふ向下的傾向を帯びた「殘月一聲」「不如歸」等々、これ等より流行唄は漸次自然に背き野趣を失ひ都會趣味化し浮華輕兆の流れに入つた。次いで大正三年島村抱月相馬御風兩氏合作なる「カチューシャの可愛や」の唄は新劇用として出で北原白秋氏の「さすらひの歌」等の劇中小唄から野口雨情氏の「船頭小唄」が映畫小唄として出で今日の隆盛をみた。これが近世流行唄の經路である。今これらの大正時代に於ける流行唄をみるにいづれも多くは劇乃至映畫に使用すべく作られ、最初から流行唄として意圖されたものではなかつた。けれど流行唄となつた。なぜか。
 これは江戸時代の四疊半乃至三味線に漸く飽きが來、飜譯文學の影響をうけ、新奇を求めてゐた當時の民衆の琴線に觸れたからである。彼の「カチューシャ」にしても「さすらひの歌」にしても。
 かくて新しい形式と内容を持つた流行唄が出現し民衆に迎合せんとするものは其等の後を追ふて流行唄を作り出した。同じさすらひの唄にしても「ゆこか戻ろか」を眞似た「流れ流れて落ち行く先は」や「山は高いし野は只ひろし」等々が讀賣りされて流行し、次いで全盛を誇る映畫は功利的な立場から「船頭小唄」をきつかけに曰く山中小唄、曰く戀慕小唄、曰く水藻の花、曰く籠の鳥等々亂作競映し昭和の今日「波浮の港」「東京行進曲」「道頓堀行進曲」「出船の港」等々映畫小唄續出し、またレコード、ラヂオその間にあって飛躍し民衆をして右往左往せしめる程流行唄の洪水化した。然も中には「水藻の花」「籠の鳥」の如く古謠の焼直しも少くはなかつた。「テナモンヂャないかないか道頓堀よ」でも「象よ」を「道頓堀」に替へただけの囃子言葉である。
 そしてこれらの流行をあふつたものにラヂオ、スクリーン等々があるがレコードの力を看過してはならない。このレコードは直接家庭に呼びかけたばかりでなく擬似性慾の對照たるべきカフエ―喫茶店等々で傳播につとめ、嘗ては流行唄の根源地の觀あつた花柳界とその地位を轉倒せしめるに至つた。

掲載誌:『民謡音楽 主幹野口雨情』2巻 5号 昭和5年 1930 5月号