随筆

「巻頭寸言 児童の詩と詩人」

★《おれ ゆう名な 人ごろしの親分・けいかん おれの子分・女なまいき・女 おれたちころす・女かくれる・見つけだしてころす・もう女いない・おもしろくない・おとなころす・おとなたたかう・おとなすくない・こども多い・おとないなくなる・地球上の動物みんなころす・ライオン十ぴきになる・五ひき…・三びき…・二ひき…・一ぴきになる・子分のしがい多くなる・子分ぜんぶしんだ・ライオンしんだ・おもしろくない・じさつした》は「たいなあ方式」を主張する日本児童詩教育研究所(所長松本利昭氏が37年創設、指導者岡本潤氏ら)編の「児童詩教育」5月号掲載・長崎県松島小学校5年生I君の詩だ。〈ドラムカンになった先生をけとばす〉〈友だちの目玉をくり抜く〉〈同級生をむし焼きにする〉〈ユリの花に女性の性器を連想〉等々、従来の生活詩が主流である児童詩を否定する型の児童詩が続出して、教師・児童文学者間で児童詩論争が展開され出した。「たいなあ」方式とは「何々してみたいなあ」という「規則や習慣によって押えられた欲望、意識の底に沈澱している人間の衝動、深層心理を解放して詩に表現しよう」というものだそうだ。これに対し生活詩の側の明星学園講師寒川道夫氏らは「観念を弄ぶ教室不在の詩だ。TVの影響による詩だ」とし、日本文学教育連盟委員長久米井束氏は「国民教育の立場が閑却され、建設的、連帯的な善意の精神を欠く」と攻撃している。童謡詩人諸先生は何を考え、何をしているのか。
★《荒君の願いはなんだろうか。もし・ぼくがいいことをして神さまが・三つの願いを・かなえてあげると言ったら、まずだい一に・いつまでたっても・死なないようにと言う。だい二はげんばくや・地下じっけんが、なくなれとたのむ。だい三は世界各国にいるばいきんを・なくならせてくださいと言う。》は岩手県釜石市甲子中学校一年生荒比呂志君が六年間書き続けて来た日記帳の中から父に60篇選んで貰って夏休みの宿題のため収録した非売品詩集「時計のいのち」の中の一篇だ。比呂志君の後記に「自分の気持を見つめて行くことだけは見失うまいと思う」と付記している。詩は「全人」への道だ。筆者は30余年前数年間地方紙2紙の児童詩の選に当り国語教師らを指導していたが「詩は人也、神也、一切也」の持論を基にし偏らなかった。「たいなあ」方式の指導者よりも荒君の無名の中学教師に敬意を払いたい。『たいなあ』方式の『深層心理の解放』なる理論は新しいし意義も価値も立派だが、指導を誤ると本人の一生を誤る。詩作45年の尾崎喜八氏は39・8・16付読売「わが詩集・わが人生」で“作者はおのれの作品に似てゆく”と述べた。然り『嘘から出た真』も真理だ。何も判らぬ児童をモルモットにするな。児童詩も「全人」への道であるべきだ。真の詩を知らぬ者が児童詩指導なんてチャンチャラオカシイ!
★児童を教師らだけに任すな。童謡誌“られて”癈刊は惜しいが同誌主宰都築益世氏や童謡誌“熊ん蜂”の坂口淳氏ら、一つ児童詩論争へ乗り出したら如何。また往年の百田宗治氏らの如く、世の詩人はもっと児童の世界へ首を突っ込んだら如何。さもなければ児童へのいい詩を心がけたら如何、大人向きの詩ばかり書いていないで…(9・21・中山輝)

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 十一月号 復刊49号 通巻149号 1964
北日本文苑詩と民謡社