★昨年八月某日刊紙に掲載された東京都杉並区立東田小学校六年生古田みゆきちゃんという十歳の女児の、「おかあさんのばか」という詩(母を脳出血で失った直後ひとりぼっちになった悲しみを歌ったもの)が城戸四郎松竹社長の目にとまり、水川淳三氏の監督昇進第一作として目下映画化(5・20毎日夕刊)されている数行の詩が万行の散文に優ることを示す一例だが、どんなにいい詩でも読者の受けとり方でその存否が違う。みゆきちゃんの場合は例外だろうが、5・18北日本新聞(モスクワUPI=共同)はソ連レニングラード詩壇ビート派の大物詩人ヨレフ・ブロツキー(26)が隣人達による同士裁判で「悲観的、虚無的、好色的な詩を印刷、配布し、一郡の若い信奉者を堕落させた」という判決を受け「社会の寄生虫」として同市から500キロ離れたアルハンゲリスク市へ流刑(五年間)されたと報じた。これもソ連の国策に反する詩であるにしろ、詩の影響力の偉大さ(いい悪いの判定は“時”と“所”と“人”によって異る)を示した一例だ。「詩人は何ものをも憚らず真情を吐露すべき天職を帯びたもの」は佐藤春夫氏の隻句(読売夕刊1・23付「詩文半世紀」)だし「芸術の意は法否定ということでしょう」は内藤東京家裁所長の言(読売2・4付“にっぽん人物画”)だが、指導層は彼是併せ考えて「詩の偉力」を発揮させるようにすべきだろう。
★諷刺詩人小熊秀雄氏(筆者が会ったのは30数年前だが)が貧乏と病気で不遇のうちに39歳で他界して24年になるが、旭川市常盤公園に記念碑建立の計画が進められている(5・15付読売夕刊)という。「詩人」は「死人」になって真価が認められるらしい。読売夕刊「手帳」子は“昭和11年4月2日の読売新聞に小熊は「………100人の芸術家より1人の民衆の方がかわいい、その方が大事だと思いこんでいる」という意味のことや「大衆のわからない詩は詩でもなんでもない」という硬論がみえる。小熊の発言は、現代の文壇、詩壇にも痛いはずだ”と書いている。「手帳」子の言には異論があるが、問題は技法でなく詩魂だ。尤も島崎藤村は昔「人工を加へたものほど善く人工を加へたものほど美しいとするのは、多くの世紀末的な詩人に見るところである」といっていたが………
(39・7・27TN)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 九月号 復刊47号 通巻147号 1964
北日本文苑詩と民謡社