★門弟三千人の師といわれた佐藤春夫氏は5月6日(筆者の亡父の祥月命日の日)自伝の放送録音中に心筋コウソクで急逝し、各紙は「生涯を詩魂で貫いた詩人」と業績を讃えたが、作家としてよりも詩人としての佐藤氏を高く評価したのは当然だろう。この点、室生犀星氏の場合と同じだが、百篇の小説よりも一篇の詩が心琴を揺り動かすことを示したものとみられぬこともない。五月八日、読売「編集手帳」氏(高木健夫氏)は“芸術院会員文化勲章のこの作家は、小説家というよりも本質的な詩人だ。佐藤さんは藤村を「小説家藤村よりも詩人藤村の方を多く買いたい」といった。がこれはそのままにかれ自身にあてはまる。”と述べたのは正しい評価といえる。同紙同日付夕刊で山本健吉氏も「佐藤春夫の文学」の末尾をつくづくかけがえのない詩人を失った」と結んでいるのも同然だ。が「かけがえのない詩人」という言葉は各詩人個々にあてはまることを考えるべきで、無名だからといって「かけがえのある詩人」とするのは、自己の視野の狭小を示すものと知るべきである。
☆神近市子代議士(79)は5月9日夕6時NHK(2)放送で「私は現代の若い人は“詩を忘れた世代”だと思う。詩を愛する心は、他人からしいられるものではなく、自分自身の心に自然とわくものだ。そして孤独をいやし、心をきれいに洗ってくれる。そんな心が今の青少年に一番欠けているのでないか」と、青少年非行化の要因を衝いた。詩が「救い、慰め、励まし、夢」などであること神近女史が身を以て知っているからだろう。5月中旬松沢病院開設以来86年目に初の大臣視察をして精神病患者から大歓迎をうけた小林厚相は若い婦人患者から「和歌も作れぬ大臣ならやめなさい」とやられたそうだが、現代の政治家で詩心(歌ごころ)を持っ人は実に少い。僅かに俳句を作るのに大野万木老と和田博雄社会党先生がいる位だ。毛沢東は詩人として知られているが、幕末の志士は多く詩人であり、維新後の政治家も詩心の持主だったし、武将でも乃木将軍のようにいい詩を書いた。神近女史の言ではないが「政治家などの非行化」は「詩を忘れた現代」の反映だろう。☆昨年8月ある日刊紙に掲載された東京郎杉並区東田小学校六年吉田幸ちゃんの「おかあさんのばか」という一篇の詩が城戸四郎松竹社長の目にとまり映画化されることになった。これは母を脳出血で失った直後、ひとりぽっちになった悲しみを歌った幼い詩だが、無名の子供の一例だ。“実際に和歌、句などを作らずともよい。人間、とくに政治家には「うた心」が大切である”と「よみうり寸評」氏は5月19日付読売夕刊で書いている。世のマスコミ関係者にも「詩心」あればなァ―と一本釘をうっておきたい。
(5・24夜、TN)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 七・八月合併号 復刊46号 通巻146号 1964
中河与一研究特集 北日本文苑詩と民謡社