★人間は何のために生れ、何のために生きるのか―について多言のスペースもないし既にある程度語ったから端折り、残り少いスペースに断片語を列ね、考えてみたい。人生は『何をしたか』でなく『どう生きたか』が問題だ―と誰かいっていたが、多くの人々は『金をためた』『名を成した』『地位を築いた』『名誉を得た』『事業を残した』等の『何をした』に重きを置いているようだ。私とて凡愚だからその例を洩れず、何か価値のあることをして死にたいのだが、中々できない。で『どう生きたか』だ。一言でいえば『生楽し、死もまた楽し』でありたいとして来たし、そうありたいと念じている。そのために現在の瞬間々々に最善を尽す。その瞬間々々の『生』を充実させ価値あらしめる。それが『わが生』の姿だが、その果ては『悔いのない死』となろう。以下、五十音順に断片語を列ねて反省の資とし江湖の教示を得たい。
★愛 愛にはピンからキリまであるが、西欧人の愛は神・人の関係のもので神即愛だが、日本人の愛は人対人、特に男女関係が多く、日本人には『神みそなはす』がなく『神の愛』が薄い。だから日本人の『愛』は混乱している。私は真の愛は報いを求めない無償の愛・絶対愛だとしそこに真の幸福があるとし、その絶対愛の使徒を願って来た積りだが、愛し方が拙劣なため誤解を招いた事も二三ある。だが最初から『自分さえ犠牲になればいい、それで相手がよくなり救われるのなら』と思ってのことだから悔いはない。愛されなくとも愛することは誰にもできることだし、楽しくいいことだ。愛憎二ならずというが、憎悪心を長く持続できず、相手の身になって考える癖があり、ぢきに許してしもう。気の弱さか。
★祈り 『及ばぬ時の神頼み』という俗語があるが、失意・逆境の時、あるいは死に直面したり、人事の限界点へくると目に見えぬ『大いなるもの』(神仏)に救いを求めたくなるのが常人だ。ゲーテは『学問や芸術を持つ者はまた宗教を持つ。学問や芸術を持たない者も宗教を持たねばならぬ』といっているが、ここで宗教論をブツつもりはない。だが「宗教は阿片なり」という連中の「祖国ソ連」はロシヤ正教は勿論、仏教も公認しているし、レーニンやスターリン等の葬式もしている。そんなことは別として『祈りある生活』は明るい折目ある生活だ。祈りは願求と感謝の現われで、俗世を離れ対人関係から遠のいて小我から大我へとけ込む没我・無我への窓だ。詩は一つの祈りの言葉でもある。
★裏 表面だけをみて一生終る人もあるが、私は永い間の新聞記者生活の習癖からか、つい裏をも想う。月は表側しか地球に見せず、先年米国のロケットがやっと月の裏を写真にとって見せてくれた。裏を想うことは目に見えない世界を想うことで詩人の特権だ。裏を考えてはじめて表の是非美醜がはっきりする。
★ウソ ホラは愛嬌があるし、方便のウソはそれなりでいいが、騙すウソは我慢がならぬ。ウソを平気でいう人がいて、ぢき真にうけ騙されて酷い目にあって来たが、根からウソをつけないためどれだけ損をしているか判らない。しかし有言不実行のため心ならずも結果からみてウソをついたということになった場合もないではない。私はウソをつく人間は男女を問わず大嫌いで通しているが……。
★恩 万物の恩によっての今日だから万物への感謝は忘れていないが、受けた恩を返すということは思っているだけで中々できぬ不甲斐なさを恥じる他ない。昔多少心配りしたもののそれきり忘れていたところ、後日それを『恩』として物心両面から思わぬ感謝を受けたことが一再ならずある。相手からこまごまといわれ『そんなことがあったか知らん』と首をかしげながらも、こちらが忘れているほどの遠い昔の些細なことを忘れず徳とする本人に、こちらがかえって頭を下げさせられる。最近の某夜も突然四国の高松から電話をかけてよこし『私の今日あるのは貴方のおかげ』といい、名産品を送って来たのに面くらった。十数年前の些細な心配りをこちらが忘れていたのに、多年消息を絶っていた本人が私の些細な事を「心の支え」として励み相当成功するに至ったというのだが、それはお世辞で、そういう当方が忘れているような事を忘れずに『徳』としている本人の人間性のよさが成功者にさせたのである。反対に「恩」を「仇」で返す者もあるが、これは常人でない。
★甲斐 甲斐のあるなしは主観的なものだろう。生きている間は生き甲斐のあるようにしたいものだ。ただ働いても働き甲斐がなかったり等々、言動に『甲斐』の裏付がない場合は淋しいものだ。しかし最初から『甲斐』がないものと思ってかかれば『甲斐』があった時は儲けものだ。(40・4・18)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第23巻 五月号 復刊54号 通巻154号 1965
北日本文苑詩と民謡社