能村、早川両主賓を中に、宮崎、古谷高橋諸兄で「おでん」席の止り木に並び女将らを相手に冗談を交えながら飲み、たべる。古谷君の、毒舌いよいよ冴える頃、平塚へ帰る能村氏と別れ、高橋君の自動車で新宿(古谷君の巣)高田馬場(坂田氏の巣)を経由、池袋駅前の近藤軒(ここは藤田健次氏の巣で日本民謡芸術協会がいつも会合しているところ)階上へ辿りつく。この三次会は高橋君の招待だ。山程の中華料理に酒、ビールと続出するが私はグロッキーでジュースだけ。よくたべるのは宮崎氏。益々元気なのは早川君で十六、七の娘さん二人にダンスを教える有様。さすがの古谷、高橋両君も飲み疲れたか、眠そうだ。十一時すぎお開きでバイバイ。
松村又一氏と歓談 25日午前11時、池袋駅西口で高円寺からでかけてきた松村又一氏と落ち合う。松村氏とは早川君は久しぶりだが、私は初対面だ。駅前の「のとや」四階座敷で松村氏の御馳走になる寄せ鍋をつつき、飲まないという松村氏つい盃を乾し、早川君飲み疲れて仰臥仮寝。松村氏と私の間に詩壇裏話が盛んにでる。正月他界の河井酔茗氏(松村氏と親類の由)福士幸次郎氏、霜田史光氏夫人等々の秘話やら、松村氏が奈良売薬行商時代の逸話、さては詩論等々、約三時間。松村氏の自動車で一応早川君を小宅へ届け、池袋駅で松村氏と西東へ。
小野忠孝君と藤田健次氏宅へ 26日朝、早川君とまだ寝ているところへ、大森の島田ばく君宅にいる小野忠孝君から「あいたい」という電話。小野君指定の場所がよく判らず、地下街から東口へでると「大森からハイヤーでとんできたのに一時間待たせた」という。遅刻常習者とて一言もない。何とかいうレストラン階上で小野君、早川君との初対面の挨拶そこそこに「おい、ビールをぢゃんぢゃん持ってこい」といい御機嫌。「放浪無頼」と自称する純情居士の小野君、声涙下る演説をする。藤田健次氏宅へゆく時刻が大分遅れたので、自動車を拾う。藤田氏宅へは西武線東長崎駅下車で歩いてならすぐ判るのだが、自動車なのでまごついた。小野君、酔っているのにあちこち走り廻って探す。いい男だ。やっと藤田氏宅へ。待ちくたびれの藤田老、すぐ酒肴を持ち出す。四人炬燵で歓談。感激して歌い踊る小野君を藤田老に託し、3時頃辞去。あとで聞けば小野君も間もなく辞去し、早川君、藤田老と風呂へ入ったり兼谷昌治君来訪で交歓、夜中の二時頃まで話に興じたげな。同夜綱島嘉之助氏から「31日の会の打合せもしたいし、早川君と語りたいから29日夕日本橋三越前へきてほしい。連絡頼む」と電話あり、すぐ藤田氏宅へ電話して早川君に伝え、その旨、綱島君へ電話。
早川君、鎌倉・平塚へ 27日藤田健次氏に池袋駅まで送られた早川君、鎌倉の親類、須田氏(東芝商事の課長)へついたのは午後3時だったそうだ。28朝日、同じ鎌倉の小西紫水君へ電話したりしたが通ぜず、作曲家の八洲秀章氏宅も山上なのであうのを断念、夕方、平塚の能村潔氏宅へ。夜、綱島君から念押しの電話あったので能村氏宅へ電話したら「あす(29日)千葉の白鳥省吾先生宅へゆくつもりだ」というのでびっくり。早川君、すっかり失念していたらしい。ともかく帰ってきて貰うことにしてヤレヤレ。
綱島・八洲氏らと歓談 29日午後4時頃池袋駅から能村潔氏が「今、早川君と着いた」と電話。早速、迎えにゆき、平塚からわざわざ早川君を送り届けて下さった能村氏とバトンタッチする。時間まで小宅で早川君から一別?以来二日間の「早川君嬉しがりの巻」を聞き、池袋駅発地下鉄で日本橋三越前へ辿りついたのは定刻をすぎること30分の六時半。寒風にオーバーも着ずライオン像の前に待っている綱島氏に「済まん、済まん。」近くの料亭「楽らく」(室町)階上へ案内される。部屋へ入ると、2月28日に日本橋三越劇場で綱島氏とコンビで抒情歌謡作品発表会を開くビクター専属作曲家八洲秀章氏が愛弟子の「すずらん姉妹」(八洲氏と同じ北海道生まれ。三月ビクターからデビューの美しく可愛いお嬢ちゃんたち。財経評論家三鬼陽之助氏が後援会長)と待ち構えている。八洲氏の話では、綱島氏は五時半から三越前で待っていたそうで「オーバーを持って行ってあげようと、何度思ったか知れない」という。綱島氏と早川君、握手して涙ぐんでいる。綱島氏がまだ独身で大阪の武田薬品に勤務していた頃、大阪を巣にしていた早川君と親しくしていたが、それ以来三十五年ぶりの再会だという。八洲氏「詩の人達は実に純粋で美しい。これが本当だ」と感激。綱島氏心尽しの酒肴に早川君、身体に似合わぬウグイスの声で同君若かりし頃自作自演した「煙草の煙」を歌う(私も初耳。詩も曲もいいのでさすが作曲家でバリトン歌手の広田宙外和合中学校長のイトコだけあるワイと感心した)八洲氏「これは戴ける」と早速歌詞を書きとる。早川君、美少女の「すずらん姉妹」に人生訓、処世訓を説き、八洲氏から「校長先生」の尊称を奉られたりする。早川君と八洲氏とは八年ぶりの再会である。32年秋、日本民謡詩人協会(これは当時私が提案したのを小西紫水君ら受けいれて日本歌謡芸術家協会に改め、更に脱皮・新発足して「家」の一字を除いた今の日本歌謡芸術協会になったもの)の第三回民謡祭(第一回は東京第二回は大阪)が富山市公会堂で開かれた際、八洲氏が白鳥省吾、三島一声、小西紫水等の役員と共に富山を訪れて以来とて、話がはづみ八島氏も望郷のソーラン節を歌ったり賑やか。「すずらん姉妹」は早川君所望すれども、早川「校長先生」の訓話やウグイスの声に恐れをなしたか、綱島氏と共にニコニコ謹聴しているばかり。九時頃八洲氏と「すずらん姉妹」が鎌倉へと帰り、ふりだした雨の中を綱島氏の外車で小宅まで送って貰う。
中野武彦君と歓談 中風で倒れて数年、右手が全然ダメで、左手しか使えず臥床がちの中野武彦君が「花沢豊君からのしらせで知ったが、早川君いつ上京するのか、あいたい」と、佐々木竜之君を介していって来、さらに「今あえなかったら一生あえない」と綿々の情を書いて来ていたし、早川君も同様だったので、やっと31日午前に中野君を訪ねることにした何分、土佐男児の中野君が酒のために倒れ「生命が惜しかったら一滴も口にするな」とわが子のように可愛がっている広瀬充氏から厳戒されてそれを遵守している中野君の前で好きとはいえ、酒は遠慮しよう、と早川君と申し合わせて行った倒くさいとて高田馬場駅から自動車を走らせたのが失敗。藤田健次氏宅と同様、歩けばよかったのだが、私とて二年ぶりの上、飛んでもない所にビルが建っていたりして判らない。あちこちグルグル廻りし運転手君も車をとめては訊ね廻るが時間がたつばかり。歩いて探そうと車をすててやっと辿りついた。一時間ほど時間をムダにしたわけだ。、目のみえぬ早川君と右手がダメで舌もよう廻らぬ(両方が自由なら、毒舌毒筆もの凄かろう)中野君、二人とも落涙しながら初対面の握手。私も思わず胸がこみあげてきた。お茶でいい―というのに奥さんが酒肴を次々炬燵へ運ばれるので、遠慮なく頂戴するよもやま話尽きず、夕方四時から銀座サッポロビヤホールで主〔賓〕になる早川君、控え目にしながらも、ジュースのんでいる中野君の奨め上手もあり、感動のままつい盃を手にし、ウグイス張りの声を披露。その癖「今、何時ケ」と用心深い。信州に引っ込んだきりの臼井元嗣君へ三人で寄せ書きし、奥さんがわざわざ拾いに行ってこられた自動車に乗り、涙ぐんで見送る中野君夫妻に別れを告げたのは午後三時すぎ。東京では、なまじっか自動車で探すよりも電車で行って歩いて探した方が「急がば廻れ」なので、池袋駅から地下鉄に乗り、銀座駅へ。
早川君激励会 地下鉄をすてたのはもう定刻の四時。さあ遅れた!と急ぐが、快晴の日曜日とて横小路も人だらけ。早川君の手を引っ張って「ヨイショ、ヨイショ」のかけ声かけて人ごみを縫うて半ば駆け足。早川君にも気の毒した。
階上へあがると、受付に綱島嘉之助、花沢豊、宮崎健三、早川数江諸氏が待っている。花沢君「伊福部隆彦先生が中山君まだか、話があると待っておられる」というので、また遅刻常習犯へのお叱言か―と会場へ入ってみると、もう半数以上のお着き。伊福部氏。南江治郎氏らと末席?の方に陣取ってごさる。早川君の傍の席へ―と奨めるが「こっちが気楽ぢゃ」と、もういい御機嫌(あとで聞いたら、会場が判らず、一時間探し廻り疲れて一杯きこし召してこられたらしい)のようだ。御意のままに先着順にお好きな席について貰うことにする。会場設営の古谷玲児君が四十人位と予約しておいてくれたが、出席通知は五十五人とあり「困った」と思ったが、遅刻した上、お歴々着席なので、急に変更もできない。それに古谷君が前夜から旅にでていないので仕方なく成り行きにまかせる。十七日の日本歌謡芸術協会新年会で使った携帯用の小型マイクロフォンも故障でダメだと綱島氏いう。これも仕方ない。
前夜、異色ある雑誌「文明」を発行、また白鳥省吾氏の豪華詩集「北斗の花環」を近刊の稀観本出版会社「世界文庫」社長松本富夫氏から「明日の出席者全部に雑誌を寄贈したい。また畠山清身氏の弟さん畠山清行氏らも同行する」旨の電話あったが、その「文明」正月号(これには、銀座の菅石寛氏が寺下辰夫氏や水木伸一画伯らと富山の翁久允氏を昨秋訪ねた折の合掌造りの随想や寺下氏の甘辛史覚帖などがのっている)が沢山受付においてある。あとで宮崎健三氏らに配って歩いて貰った。なお、序だから先に付記しておくが、松本富夫社長は同「文明」二月号の「文明雑記」で
「去る一月三十一日午後、銀座サッポロビール二階で「北国詩と民謡」の雑誌責任者早川氏を激励する会を中山輝氏司会で開かれた。会する者五十五名、全盲に等しい早川氏が人一倍むずかしい雑誌の経営を、不自由な体で定期に発行していることは到底われら目明には出来ないことで、亦その詩も早川氏は目明のときよりも現在の方が数等勝れている。それは一つには俗欲な肉眼に犯されず正しい心眼によって詩情を見ることに外ならない。乞う早川氏よ。益々健康で心眼を以て詩情豊かな作品を発表されよ、と挨拶する月原橙一郎氏のことばに全員拍手喝采」(原文のまま)
と記された。ここで御礼申し上げる。
白鳥省吾氏は風邪でこられず奥様が代理でこられる。若々しい詩を書かれる館美保子さん、八十歳とも思えぬ服部嘉香文博、作家中河与一氏等々相次いで席に着かれ、狭くなったのでテーブル二つふやして貰う。四時半綱島氏司会で私が一寸お礼の言葉を述べ、白鳥氏に代って夫人が早川君を歓迎激励の挨拶、中河与一氏の音頭で乾盃し開宴。私の方の席から順次、自己紹介にかねて早川君へ温かい言葉が贈られる。何しろ、私は受付へ走ったり、面会申込み者の取次ぎをしたり、電話の応待にでたり、声が小さくて聞えぬからもっと大きく―とお客様に頼んだりで忙しくて誰が何を申されたのか、殆んど聞いていない。早川君だけ聞いていてくれればそれでいいのだから気楽だ。鈴木勝氏から「出ようとしたが歯が痛くなり歯医者へ来てるから」の電話などが来る。
(中略)
の諸氏、藤川克巳君(立山町出身の作曲家で川上幸平氏の令弟、黒坂富治君の教え子)が二次会へ駆けつけて来たが……
(以下次号)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第23巻 五月号 復刊54号 通巻154号 1965
北日本文苑詩と民謡社