随筆

「早川孝吉氏追悼 孝吉君よなぜ死んだ」

 正月二十八日夜九時頃、帰宅したら家内が「早川さんが死なれたと電報来た」の旨いうので愕いた。「どの早川だ」と息詰まらせて訊いた。「先生の早川さんです。藤田さんからも電話あって電話して下さいって」という。何しろ「詩と民謡」には早川が三人いる。早川嘉一、早川孝吉、早川数江だ。誰一人死ぬとは思えない若さだし、元気さだからショックだった。早速、藤田健次老と電話で互に愕きを語り、翌朝また藤田健次、綱島嘉之助氏らからの電話で孝吉君の急逝について話しあった。藤田健次老は私と同じ立山町出身で日本民謡芸術協会の副会長だし、綱島嘉之助氏は日本歌謡芸術協会の事務所を自宅において常任理事として種々世話している人だ。孝吉君から昨秋の民謡まつりに出来たら上京して藤田氏にあい、綱島氏をも訪ねたいといって来ていたので心待ちにしていたのだが…。
 孝吉君については想い出が尽きない。彼が昭和初頭、北加積かどこかの小学校の先生をしていた頃から親交を交えた。孝吉君が自村・白萩の山間部落について調べ「原始共産制」?なる研究論文を書き東京の何とかいう学会出版の論文集に発表したりしたのもその頃だ。昭和五年に「詩と民謡」を創刊した当時から彼は同人として参加した。雑木石郎のペンネームで農村民謡を発表していた。やはり当時小学校の先生をしていた広川親義君(北日本新聞魚津支社長、短歌時代社主宰)は同様、創刊以来の同人だが赫木炮郎のペンネームで詩を発表しており、雑木石郎と赫木炮郎と似た筆名なので同一人のように間違えられたようだ。
 昭和七年夏、私が北陸タイムスから金沢新報へ、二度目の出向をしていた時、偶然、孝吉君と川口清君が私を訪ねて来た。二人共、小学校の先生なので、夜遅くまで金沢のあちこちを案内して廻った「社会見学をする必要がある」と称して西ノ遊廓へ三人見学に行ったが、狭い迷路の両側から遊女が嬌声あげて殺到し私らの争奪戦を演ずるのに、朴念仁の両先生慄え上がり、しっかりと私に掴まって離れないのに閉口した。当時、絽の羽織仙台平の袴に太いステッキが私の服装で洋服など着なかったので、ステッキ姿の私には遊女も少し恐れをなしたらしい。が、一見先生と判る洋服の二人はいい鴨とばかり私から引っ剥がれて悲鳴あげる遊女、面白がってなおさら二人を翻弄する。三人、這々の態で、金沢新報社の二階社長室(八畳の畳の間)へ戻った。私が社長室を占領して単身寝泊りしていたので、三人雑魚寝した。二人とも初めての社会見学にドギモをぬかれたらしい。川口清君の詩に「売られゆく貧農の娘」のものが相当あるのも、この時からのようだ、今や、二人とも世にいない。あの世で大笑いしているだろう。
 孝吉君には相当恩誼を恭っている。彼が金沢の遊廓素通りで胆を縮めてから間もなく、北陸タイムスのスト騒動で内藤隆編集局長(現・代議士)が犠牲になったのに殉じ、私は二度目の辞表を叩きつけて一年間ルンペンした。その時、地方の名門家の御曹司であり、各青年団のボスであった孝吉君は、せめて生活費のタシにでもと、あちこちの青年団への時局講演に私を引っ張り出してくれた。これでどれだけ助かったか知れない。その後彼の村へもよく講演に引っ張られた。さらに、六年前、私が失脚し、山頂から谷底へ転落し、借財山の如く、心身ともに“死”の寸前へ追い詰められ、家内の細腕で漸く糊口を凌いでいた時、上市高校三成分校の校長格だった孝吉君は卒業生の作文集をやってくれと家内へ申込んで来てくれた。ガリ版印刷だ。私は古自転車で二月の寒風を衝いてあちこち駆け廻ってやっと仕上げ、雨のふる日、家内と二人、重い本を大風呂敷に包んで背負い地鉄から一里余のぬかるみ道を、あちこちで尋ねながら分校へ辿りついた。夕方だった。孝吉君は「遅いから帰ろうと思っていた」といって先生方を促しストーブをドンドン燃やし、熱いお茶をくれた上、即座に工賃を「中山先生が寒いのに持参された足賃だ。これで一升のんでくたはれ」と五百円余分にくれた。多分、自腹をきったのだろう。帰途、家内と二人、孝吉君の温情にオイオイ泣きしながら横なぐりの冷雨も忘れていた。
 一昨秋、上市高校の三年生を引卒し山梨から上京するというて来たので、藤田健次老と二人、新宿駅に孝吉君一行を出迎えた。即夜上野発で帰県するというので、ハトバスに孝吉君のいうまま同乗した。私としては夜の東京一巡は久々だが出不精の藤田老はハトバスに乗るのは初めてだと大喜び。ところが、孝吉君立ち上がり「みんなよくきくんだ。ここにおられるのは我が校の校歌の作詩者だ。一同、校歌を歌って先生の御健康を喜ぼう」と不意うちをくらわせた。何十校の校歌を書いて来たが、全部酔余即興の書きすてだから、何を書いたか覚えてもいないし、誰が作曲したのかも忘れてしまっている。それが不意うちだから愕いた。そういえば上市高校の校歌も書いたっけ―と漸く想い出したっけ。バスの中は大コーラスだ。歌詞も曲も知らぬのは私と藤田老と二人。ハトバスに揺られている間、ハトに豆鉄砲の思いだった。上野駅へついてから、一時間、構内食堂で孝吉君のオハマリで藤田老と三人、ビールの満をひきながら四方山話をし、武男と浪子の生き別れのように、「汽笛一声」上野駅をたつ汽車の窓で互に手をふり合って別れたのが、今生の最後だった。
 その間富山の時も、東京の時も、茅居へよく来てくれた。孝吉君は詩人というよりも歌人として一家をなしていた。金子薫園、若山牧水、北原白秋等の短歌雑誌に数多く発表し、私が富山日報社会部長になった昭和八年からアララギ派となり斉藤茂吉に師事していた。歌集「緑の羽根」を出すとき、点検してくれ―と原稿を持ち込んだので、○◎をつけ、さらに源氏鶏太君に序文を書いてくれと頼んで(源氏君、短歌ぐらいは内緒で書いているだろうし、書いていなくても、短歌のよしあしぐらいは判っている筈だから)やがていい歌集が世に出て高評をあびた一昨年春、民謡集を出したいから取捨撰択して寸評かいてくれ―とドッサリ原稿を送って来たので○◎×をつけ、それぞれに寸評を付記しておいた。民謡集名も考えておいてくれ―というのであれこれ考えたが、これは本人がきめた方がいい―と思ってそのままにしていた。いい作品が多かったのに、藤田老の民謡日本や白鳥省吾氏の日本歌謡等に発表したものは彼の本物でなかった。作風は藤田健次老の俳風民謡に似て、歌風民謡で、時々雅語や閑寂味を加えたユニークなものであった。人柄そのものだった。風貌は白鳥省吾氏によく似ていた。朴念仁、温厚篤実、几帳面さに義理固さなども…。
 夫人は婦人会長もしておられ、夫人の招きで白萩へ講演に行ったこともあった厳父直次郎翁は多年村長をしておられ、今も御健在ときく。孝吉君を失われた御悲嘆、どんなだろうと思うと腸を抉られるようだ。
 藤田老とも語ったが(藤田老は民謡集をいつ出すのか、と年賀状に書いたといっていた)民謡集を出したかったろうに出さずじまいで、春に背を向けて彼岸へ旅立ったのはさぞ心残りであったろう。孝吉君は寡黙謹厳、ただ農村の心を心とし、富農にさせるための一筋の道を歩いて来、思いやり(人だけでなく豚鶏にも雑木にも)が深かった。山村生れの山村育ちの点、私や北島助三郎君らと同じで私も幼少年時代、百姓の真似をして来ただけに互に相通ずるものがあった。
 孝吉君は「詩と民謡」に二年ほど休稿していたが、民謡日本と歌謡日本(二冊とも隔月刊)に毎号発表していた。民謡日本新年号に自村を背景にした爽やかなエロシズムを流した「微笑微苦笑」を発表しているし、彼が他界する二日前の正月二十六日銀座で開かれた歌謡芸術協会の会合で手渡しされた日本歌謡詩選に早月谷小唄等、自村を歌った民謡四篇を発表している。恐らくこの本も見ないで永眠したのだろう。その点、菊地久之君が折角大野加牛、早川嘉一、広瀬氏春君の心こもる世話で出来た詩集「鬼」を見ないで死んだ(私は納骨の際、久之君の実兄故小川久義参議院議員らと共に二冊、墓の中へ入れて「君ァまたなンで慌てて死んだがや」と愚痴を並べた)のとそっくりだ。
 聞けば胃癌だったげな。そんなに飲んだとは思えないのに(山本淳歌・宗間君も手術して助かっているのに)可哀そうなことをした。彼の作品を作曲発表した藤川克巳君(島田信義医博や私らと同じ立山町出身)も彼の死を聞いて愕いているだろう。本当に「孝吉君なぜ死んだ」の悲しみでいっぱいだ。
 嘉一君の温情で、孝吉君の追悼号が出るそうだ。有難うと孝吉君に代ってお礼を云いたい。この前は岩島安治君の追悼号だった。あの時もショックをうけた。幸いに岩島君と違ってお子さん達も大きいし、厳父、夫人も御健在だ。不幸中の幸というべく、孝吉君!慾をいえばキリがない。いずれ私も後を追う。君ら、川口、菊地等々の諸君は、あの世で「詩と民謡」の合評会でもやっていてくれ給え最年長者の松本つねを画伯を座長にして…。はるか、雪を冠っている君の家を偲んで哀痛の情をおくる。
(39・2・20)

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 四月号 復刊43号 通巻143号 1964
早川孝吉氏追悼号 北日本文苑詩と民謡社