随筆

「わが生・わが死②」

★昔、満20歳になると徴兵検査があった人生の関門であると同時に社会の関門であった。今は成人式がお祭り騒ぎにあるだけで「今どきの若いモン」に飴をしゃぶらせる位の形にすぎず、精神美の充実が薄い。私は胸を病み山村に寂しく“死”と対決しながら青春を埋めていた。まだ休学中とて、早大の学生気質(オール・バックの長髪族、マルクスボーイのバンカラ、弊衣破帽)のままであった。小学時代の恩師・高島耕文先生(校長を退き当時村長)は私が自慢であった。徴兵検査当日、村の同級生達と共に高島村長引率の下、今の魚津市大町小学校で体格検査をうけたが、殆んどの友人は甲種合格で、私だけ丙種であった。ところが、大講堂に全員整列して一人一人、徴兵官から宣告うける時、私は大声で叱られた。なぜ坊主刈りにし、羽織・袴で出頭しなかったか―というわけだ。なるほどみると、長髪・着流しは私だけだ。私は生来愛国者のつもりだし、今も愛国心に燃えていると自負している。誰か事前に教えてくれたら、坊主刈りにし、羽織・袴に威儀を正して受検したのだが、浪子病を恐れて誰も近寄らなかったため知らなかった。高島村長、あとで「中山は早大生だから危険人物だ。監視せい!と連隊区司令官から叱られた」と、こっそりこぼされた。全く申訳ない。恩師に赤恥をかかせてしもた。司令官がそういうのも無理はない。大山郁夫、佐藤学諸教授華やかなりし頃で、早大校庭・大隅侯銅像を中に軍事教育反対の流血騒ぎを起して間もない頃(マルクスボーイでないのは柔剣道部の学生位だった)だから、私の長髪等は軍部への反抗を示すものと思ったのであろう。恩師は私をよく識り、信じていたから、あとは何もいわなかった。
 一寸蛇足を加えるが、真の愛国心というものは個人―家族―社会―国家―全人類へと一貫する偉大な愛だ。利害得失を超え、人種・国境を超え、地球を包む神仏の絶対愛を体現するものだ。個人主義を利己主義とはき違えるから高校生が平気で殺人等を敢てしている。これは教育の欠陥からも来ているが、可哀そうなのはあたら天与の若い生命を自ら絶つ者だ。「俺の生命は俺の物、どう処分しようと俺の勝手だ」とするのは一種の増上慢だし、そう自殺へ追い込む“現代”に憤りを感ずる。
★私は人生の坂を下りながらも「死んだらどんなに楽だろう」と思ったことが一再ならずある。だが、自分の生命は自分個人の私物でない。自分以外の者(肉親縁者、友人等々、さては神仏)の共有財産を預かって管理しているだけで、自分勝手に処分できない―と19歳の頃確立した人生観に立ち戻るのである。自殺する者は天才、秀才型だ、と前回書いたが、私は自分を天才、秀才と思ったことは一度もない。大愚と称した良寛や愚禿というた親鸞などの名を出して申訳ないが、つまらぬ知識や事理を無にして凡愚になりたい、無雑にさせて戴きたいと願っているだけだ。
 よべついに死にしと思もえば今朝のめざめ誰に向いてお礼を云わむ
 われ死なば解剖に付しその骨は肥料にすべしその他無用ぞ
など数十の腰折は六年前の丁度今頃、身の自由を奪われ、酷寒下、連日連夜、青鬼・赤鬼の立身出世主義者族の人身御供として責め苛まれて、いつ低血圧による発作的狭心症で死ぬか判らないということを覚悟して遺言のつもりで面会に来た妻に与えた鉛筆の走り書きだ。
 思はずもナンマンダブと云ひにけり
 一人湯浴みにひたるうれしさ
これは十五歳の頃、隣家での貰い風呂中思わず知らず口から出た腰折だ。この感謝心が生命だ。私は私の肉体の仮初のもの(これは昭和五年に出した詩集「石」に書いてある)で“生ける宮”“生ける寺”でありたいとしている。そして凡愚のまま濁世に水泡のように浮沈させて戴いている身の有難さを泌々思い、この世に生を享けた意義と存在価値を一段と味得し、生きている限り、最大限にこの現身を現在の時点に符合させて人身御供に活用させて戴くことが、生を与えて下さったお方への謝恩の一端になると思っている。まことにお粗末千万でつまらぬシロモノだと、自分で自分を思うが、しかし、自分は自分自身のものでなく、お粗末でも自分以外の方々からの預かりものだから、大切に有効に有意義に活用していきたいと念じている。
★さて、前回の続きに戻るが、病を谷底の村で養い、人々から敬遠され(私の食器は母が釜で煮て消毒していた)天と地だけを相手にして山野を孤影悄然歩き廻っていたころ「生と死」「幸福とは何ぞや」を考え続けた。結論をいうと、幸福は幾つかの条件から成り立つという思いに辿りついた。①不治病の上に神経衰弱症だから先ず健康②貧乏だから富③すべての人々に愛されていたから(今でも自分ほど誰彼に愛されている幸福者はないと思って感謝している)愛情④それから地位⑤名誉⑥権力―等々から成り立つと考えた。しかし、これらの幸福は条件によって得た幸福だからその条件がなくなれば“生れざりせば”でないが、むしろマイナスで、より一層不幸感が強くなるだから条件付の幸福なんて本物でなくニセ物だ。真の幸福というものは、それらの“健康”“富”“愛情”“地位”“名誉”“権力”等の条件を捨去ってしまった“無”から出発する。ゼロから出発してゼロに帰る。つまり無始・無終・無限は円・0・ゼロだが、そこにこそ真の幸福があるのだ。端的にいえば“報いを求めない絶対愛”だ。友人も年若くして肺病で沢山死んでいった。ランプのホヤ掃除しか知らず、電燈の有難さもみないで……。彼女、彼からみれば、何年か拾い物をして色々のものを見聞させて貰った慾をいえばきりがない。百まで長生きできるものでもないし、あの大杉でさえ何百年生きているか知らんが、人間共に切られてしもう。自殺することも歩くことも見ることも出来ない、可哀そうな生物だ。山上の梢から吹き飛ばされて天へ、谷底へちりぢりに散っていく病葉(さながら俺だ)も二度と元の梢へ帰れやしない。しかし紅葉は別だ。あいつは刻々の現在に最善を尽し、天命を果たして、満ち足りて、悔いなく、思い残すことなく散っていくのだ。悲しかろう、寂しかろうと思って見るのは俗人共の主観・増上慢にすぎぬ。ああ、私は幸福者だ!世界一の幸福者だ!もういつなんどき死んでもいい。この空気のうまさよ。日光の有難さよ。天地一切は私のために在る!太陽も月も星も私一人を軸にして廻り、そこらの石も私を中心に適当な位置を占めて私を見守ってくれている。雑草も黙って色々と形と色をかえて鮮やかに私に笑いかけてくれている。もう私はあの石ころになっている。あの小さい白い花になってしまっている。何を思いわずろうことがあろう。ただ与えられたままに従い、雑草を学び、現在に最善を尽して天命のまゝ死ねばよい。そういう心境に達した。途端にいつしか病身でなくなっていた。
★尤も、母の“絶対愛”が私を救ってくれたのでもある。母は“この子を助けてやって下はれませ。オラの寿命を今はや絶たれてもいいから、残りの寿命をこの子にやって下はれませ”と、間がな隙がな、天地に願がけをし、天神山へ雪の日もお百度詣りをしていた。母は無学文盲だった。私は小学生のころ、村の人々に頼まれて、手紙とか、書類の代筆をやって若干の謝礼を得ていた。小学校五年の頃(その時の私の雅号は天涯、桜水、天流=これは平仮名の“てる”の本字、大泉黒石や新井白石の向うを張って黄石、さては草石、草径等々であった)母に“いろはに”の手本を書いてあげた。母は私の下手な字を手本に字を勉強し、七十七歳で死ぬまで半紙三枚に亘る手紙を山村から時々くれた。きまって三行に亘りくり返しくり返し半紙三枚に及んでいた母が願いをこめてチビ筆をなめなめ書いたものだ。その三行は
 てりさ まめなか。かぜ すかんよにすて くたはれ。ぐろでもきて かぜすかんよにすてくたはれ。てりさ。はは。
であった。「てりさ」は「輝様」「まめ」は「達者」「ぐろ」は「ぼろ」の意だ残念なことは、大事にしていた母の手紙は戦災で焼けたりしてしまった。
 母の幸福は「自分がどうなってもいい子が幸福であればそれでいい」というところにあったようである。私としては母に対して出来るだけのことはしたつもりなので心残りはないが、母の素朴な万神教的な生活態度は私に大きな感化を与えてくれた。人を信じて疑わぬという性格でもあり「愛は惜しみなく与う」型であった。要するに、幸福は主観的なもので第三者の窺知の外にある。
★昔から“人生論”“幸福論”は東西に腐るほどある。多くのそれらは自ら“生と死”に対決し苦悶の体得からのものだが、それらから得た知識による幸福なんて影が薄い。世に“人生”“幸福”に関する読本式書籍が氾濫しベストセラーになっているが、これは幸福を求めている“不幸感”亡者が如何に多いかを示すものだ。それとは別だが、岡本一平(愛弟子の一人に富山の酒仙・篁牛人画伯がいる)かの子夫妻の一粒種岡本太郎画伯の語の一端に
○好かれないで、その存在が必要であるという人間が必要なんじゃないか。
○日本て国は敗北者が権威持ってるんだから、嫌んなっちゃう。
○世間の常識なやつら、学校を出たら人間らしく生きようと思ってるけれど、会社へはいると同時に人間放棄なんだそして、ただ生きのびてるだけで、生きちゃいないんだ。
○おれはただ一人ぼつんと孤独な石コロ…だからこそ、自信がないからこそ、孤独だからこそ、自信持たなくちゃいけないと思うんだ。おれを支えているのは、プライドだ。異常なプライドを持った道化、それを承知でやってるわけだ。
○神というものがあれば、それに挑まなくちゃいけない。
○日本はずっと底の方にみずみずしいものがある。
というのがある。味うべきでないか。この「生きる」とか「孤独な石コロ」とか「プライドを持った道化」「ずつと底の方」などに、太郎画伯の人生観の片鱗がみられるが、孤独に徹することが大事だ。私は孤独に徹することによって絶えず救われてきている。
  ひとり生れき ひとり生きなん
  ひとり生れき ひとり死ななん
は“死”を凝視していた19歳の時の小曲の一節だが、今でも時々、星を仰いで“孤独”のひとときに浸り、新たな勇気を貯える。
(39・2・23) 

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 四月号 復刊43号 通巻143号 1964 早川孝吉氏追悼号
北日本文苑詩と民謡社