★賞なんてどうでもいいが、罵倒されるより褒められる方が好きなのは犬猫とて同感だろう。日本ほどわけのわからぬ賞の氾濫している国も少い。賞にもピンからキリまであって一概に断定できぬが、受賞者は群衆の中の少数者でそれだけの存在価値があるから、本来、他人サマに賞をあげることの好きな筆者は大賛成だ。しかし、詩壇とかいうものに時々わけのわからぬ小グループの自慰的な賞があるようで派閥精神を発揮してオメデタサをみせてくれている。オメデタサはないよりある方がいいから各界各派大いに賞を設定して貰いたい。そのうち本誌も「詩と民謡社賞」を制定するだろう。また楽しからずやでないか。
★ところで、昨秋ノーベル文学賞はギリシャの詩人セフェリスにきまった。作家小田実氏は「彼の詩を読むと悲しくなる。それは透明な悲しみであるが」といっている(38・10・29毎日夕刊)が、村野四郎氏は「今日世界であげられる最高の詩人でないことだけは確かである。質においても、スケールにおいても、彼くらいの詩人は、まだほかにざらにあるからである」といい、ノーベル文学賞の授賞基準に「政治的配慮もある」といって日本文芸家協会でも同賞を高く評価していないように(読売38・11・5夕刊)述べている。当然な話だ。最近の同賞はサン・ジョン・ペルス、クワジーモード、セフフェリスと詩人ばかりだが、これは村野氏の言の通り、日本と外国と「詩と詩人」に対する評価の正反対を示すものだ。日本は人も物もマスコミ、マスプロ、マスセールによる規格品時代で、源氏鶏太君の小説でないが「万事お金」で価値判断の末世だ。国木田独歩は明治40年出した処女作品集の自序で「われ詩人たらんと志して哀れ三文戯作者となりおはんぬ」と自序しているが、今は「われ三文戯作者たらんと志して哀れ無一文詩徒となり終んぬ」だ。この逆ピラミッド型にしたのは誰か。村野氏は「詩を除外する日本の批評家」ときめつけているが、一面、日本の詩人全体の責任に他ならぬ。
★宮中御歌会は新年の新聞社会面を賑わし、佳作に入った無名の人も地元紙で大々的に報道された。俳句の人々は多年「宮中御句会」の実現を志して運動しているが、実現までに至らない。句歌の伝統と歴史が問題だ。しかし、英国等の桂冠詩人、宮延詩人の伝統と歴史がノーベル文学賞に尾をひき、文学(いや次号あたりで触れたいが、芸術)の核が詩となっていること(宮中御歌会しかり)これが真実であり、正しいが、時と所を適合させなければならない。何も「オカミ」に採用して貰うとか、賞を貰うとかによって、評価して貰わねば、栄光がない―などという考えは「万事お金(名誉・地位)」式に通ずる下卑た根生だ。
★今は暗黒の末世だ。闇の万分の一にすぎぬ一筋のあるかないか判らぬ光が闇を貫く「地の塩」として発顕しなければならぬ時だ。その「一粒の麦」こそ、外国の社会的地位では王座の尾を曳いている「詩と詩人」だ。それを日本の詩徒(詩謡、句歌等々の人々)は年頭に当って念頭におくべきだ
(TN・1・13)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 二・三月号 復刊42号 通巻142号 1964 能村潔著詩集「反骨」出版特集 北日本文苑詩と民謡社