随筆

「ああ梅原真隆師(上)」

 梅原真隆師の訃は余りにも突然で我人共に驚愕と悲嘆の底にまだ沈んだきりだ。梅原師は後を追ってゆかれた鈴木大拙師と共に日本の宗教界の巨柱であり、著名人の哀悼文が各紙に次々発表されて涙を新たにさせている。殊に真宗王国富山県に縁深い人々は今更のように梅原師の偉大さを憶い旧盆の新仏となられた師を慕っている。
 かしこくも天皇誕生のこの佳き日叙勲の御沙汰風薫るかも
 はからずも叙勲の光栄蒙りつ宮廷の奧にわれ召されたり
 首相より伝達されし勲章の静かに光る初夏の宮廷
 賜謁の座連れ添ふ妻のあらざるはただわれ一人われ一人のみ
 召されては宮廷にわれら居並びつ記念写真に風薫るなり
 と4月29日の生存者叙勲で勲二等瑞宝章を受けた喜びを詠まれ80歳と思えぬ元気さで各地からの要望で東京、四国、九州などへ講演に出かけておられたのだが、7月2日京都府立病院に入院、7日朝5時20分肝硬変で入寂された。6日夜重態の中で「皆さん長らくお世話になりました。深く感謝します。どうか御念仏を唱えて生きて下さい」としっかりした口調で遺言され一同を感激させたという。
 土くれにひとしきこの身八十歳(やそじ)まで生かされてあり勿体(もたい)なきかな
 生きるよし死するまたよし生死(いきしに)の峠に立ちてただ念仏(ねぶつ)する
と悟入の遺詠にある通りの大往生でも句仏上人が「勿体なや祖師は紙衣の九十年」と詠んだ親鸞上人からみると10年も若かったのだから95歳の片口江東翁や92歳の石坂豊一老位まで健在であってほしかった。梅原師のことについては多く書く要もないし、スペースも許さないから簡単にする。
 私が梅原師の知遇を辱うしたのは戦後、しかも梅原師が富大学長になられてからだから、十年位にしかならない。だから梅原師について書く資格もないが、本誌本欄の穴埋めとして書かせて貰うので、非礼をとがめずお許しを願っておく。

掲載誌:『東京富山県人連合会機関誌 富山と東京』 第十一巻 第八号 八月号 昭和四十一年