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「「古城の春」について」

 「――滅びしものは美しきかな」と若山牧水は歌ったが、時間の彼方へ消えて還らぬものへの愛惜は誰もの胸にそれぞれの幻として描かれる七彩の虹であり、それがまた現世に生きている喜びの「証(あかし)」の「象(すがた)」でもあろう。殊に戦国時代から明治維新までの覇者の象徴でもあった各地の城跡は栄枯盛衰、世の無常を語って、目に見えない「失われたもの」への哀切を愬(うつた)える。それなればこそ、物質文明爛熟の果ての「乱世」ともいうべき当代、全国的に古城再現が図られ、還らぬものを幻に描くことによって永遠を想い、未来への希望を羽ばたかせて、一つの心の救いとしているといえる。
 私は少年時代によく魚津市小川寺(四十余年前に私が発掘し世に紹介した「布施谷節」の本拠地)の天神山に登(のぼ)り、頂上の「萩の城」(上杉謙信の持城といわれている)の俤を残す礎石などに親しみ、遠い世を想ってから、越後の春日山をはじめ、凾館、仙台、会津、小田原、名古屋、岐阜、犬山、彦根、大阪、姫路、熊本等の古城・新城を数多く訪ねて感慨に耽って来たが、形として在るものよりも、その背後に秘め隠されたものへの哀憐が胸底を流れ、詩情を湧(わ)きたたせているのである。
 また、少年時代に島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」や土井晩翠の「荒城の月」を愛誦(唱)したが、近年は親友だった故高橋掬太郎君(母堂は黒部市生地町出身)の「松風騒ぐ丘の上、古城よひとり何想う」の「古城」を口ずさんで、遠い空の彼方の故郷にある天神山や富山の城跡を憶い、ひとり涙ぐんだりしている。
 このたび思いがけず富山城跡公園に黒坂富治氏の名作曲、荒谷直之介氏の装画に飾られて、大分前に書いた拙作が碑に刻まれることになり、「こんなことになるのなら、もっといいものを書けばよかった」と恥づかしく思うと同時に、恐縮し、皆さんに深謝するばかりである。それと共に、拙作「古城の春」は「幻の古城」を歌ったもので、富山のような「平城」に適切でなく、例えば

  映(は)ゆる富山の 城跡に
  希望(のぞみ)咲かせし 桜ばな
  青さいや増す 立山に
  夢みる月を 翳(かざ)すなる

のような拙詩なら、即物的で固定的だが、一応通ったかもしれないと思っている。
 序につけ加えると、昭和四十四年に日本歌謡芸術協会(白鳥省吾会長)から「大賞」を受けた「古城の春」の

  青山なみを 遠くみて
  古城むなしく 幾世経し
   ああ 天守閣 ものいわず
   ひなかの月を 傾けて
   むかしのゆめを 石段に
   描(えが)くとちるか さくらばな

  白壁映(は)ゆる 石垣に
  凭(よ)よりて何呼ぶ つたかずら
   ああ かがり火に 花かざし
   みめうるわしき ひと舞いし
   園生(そのお)よいづこ 若草を
   こえゆく蝶の かげかそか

  古城をめぐる 八巷(やちまた)は
  浮かればやしの 宵まつり
   ああ 松風も 濠水も
   たけゆく春を 装(よそお)えど
   なにとてかくも 人の世は
   移ろいやすく 寂(さび)しきぞ

は碑に刻まれる拙作を書き直したものであるし、別に類型のものとして「古城の秋」の

  濠水青く 蓮枯れて
  白き石垣 染むる蔦(つた)
  弾丸(たま)の傷痕(あと) 褪(あ)せしまま
  ああ 大手門 古さびぬ

  朱(しゆ)塗(ぬ)りも剥(は)げし 欄干(おばしま)に
  凭れば遙けき 国ざかい
  姫の小櫛(おぐし)に 似し月を
  ああ 傾けて 鳥わたる

  人江に続く 甍(いらか)波
  憂(う)しと誰(た)ぞ吹く 祭笛
  黙(もだ)す高殿(たかどの) 降る星よ
  ああ 人の世は なぜ寂し

などがあるが、これとて「彦根城」などの特定のものでなく、やはり「幻の城」を歌ったのに過ぎない。つまり、私自身を慰めるための「子守り唄」のようなものである。
 結局、人それぞれに現実の「城」よりも、むしろ胸底に「幻の城」を描いて、滅び去り、失われたものを想い、それによって明日への励ましにする方がいいようである。(昭和五十一年九月一日)

掲載誌:『碑詩 古城の春』