宮崎 そういう人が画家で、そして画家の考えかたで到達したというのは……ね、(中山 いいとして。)いいとして、いいわけでしょう。それを皆ね、それしか無いんで(中山 真似を……それが現代詩だ、と)、目下、それしか無いんだ、ということになりますと貧弱です。
中山 私は、話が、ちょっと飛びますけれども、所謂、詩論とか、先生がた、詩のいろいろの技法とか教えておられるんですが、芸術一切は、理論でいけば、音楽学校で作曲法を習った者は皆名作曲家になるし、文科を出て小説作法を習った者は皆、大小説家になる。だが、作品が先で理窟は後だといっているんです。理論は大事ですよ……基礎的になる。しかし、私は近頃の若い世代の詩人諸君も、いろんな、そういうものを読んで、人の理論、詩論に惑わされと……というと、おかしいんだが、……じぶんの本物をもちながら、じぶんというものを、あまり凝視めていないと〈天上天下唯我独尊〉のものをもっていないと思うんです。詩論なんか、それはまあ、参考にしてもいいんだが、結論的にいえば、もっと勉強しなければ、うそだと。ギリシャ時代の散文と詩との別れ、……あの時代から、ずっと古典的なものから、日本でもね、記紀万葉から勉強してきてそして現代の詩に至るまでの詩の流れなどを調べて、身を以って勉強して、その上で突抜けて、―今の時点っていうんですか、それを示すべきだ、と思うんです。どうでしょう。
能村 足りませんね、勉強が。というのは、とにかく当用漢字とか、新仮名遣とかに影響されている連中は、過去へ遡っても、文字や仮名遣に妨げられてそれを跳び越す努力をしないで、安きに就きたがる。だから、そこまで行く人間が乏しくなった。
中山 読むことだけはできる、一通りは
能村 いや、読めないんです。読んでも理解できない。というのは、こういう例があるんですよ。今年は、白秋論が卒業論文にあって、私のところへ廻ってきたんですが、『思ひ出』は〈おもいで〉と読むのに、なぜ、〈ひ〉とするのか。と、こう訊くんです。そんなことは解りきった話じゃないかと思ったんですがね。これには、まいりましたよ。その調子で、『思ひ出』を読んだって、(中山 あゝ、わからん。)わかりっこないですよ。こら、まあ、年若い学生の例ですが、その前後の人間は、歴史的仮名遣には、ちょっと抵抗を感じている。そして敢えてその壁を突破しようとしない。そういう点で、古典から現代まで、ずうっと通して、勉強しようという意欲は乏しくなったと思うんですがね。
中山 木扁と手扁の分らん連中がおるんだから。
能村 とにかく、カンならカンで、観察の観でも歓楽の歓でも同じことなんですからね〈観〉ちゃいないんですよ。(中山 なるほどね。)(爆笑)(宮崎〈歓〉んでいない。)
中山 私は、そういう点から言うと、若いときの苦労は買うてでもせい―で、若いとき勉強せんのは気の毒と思うな
宮崎 国字問題は難しい問題で、私はまた、別の機会に、と思うんですが。
中山 国字の問題は、古典的な、古い―当用漢字でないものもあるべきだと思うし、同時にローマ字くらいに、―日常語の場合、―もっと簡略にすべきだと、―字数は増えますけれど。ほんとうは、詩の用語の場合ですよ、漢字でなくて、平仮名、片仮名だけで意味が通るようにしていいと思うんです。文語になると、そりゃ、やっぱり相当勉強した連中でないと、わからんけれどそういう平仮名、片仮名時代が来ていい、そういうものが、大いにあっていいんじゃないかと思うんです。まあ、ある程度、小学生が読んでわからないものもありますわね。しかし、そういう試み、そういう表現をとっている人もありますわね。
宮崎 会津八一さんが、短歌をわざと、平仮名で書いたということは、二つ、意味があるんでしょうね。平仮名で書いて、わかりますということと、もう一つは、ただ眼で見るものではなくてやはり、これは詩ですから、声に出してお読みください、私も声に出して作ったんだということと、二つ、あるんではありませんか。(中山 あゝ、そうです。)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第23巻 五月号 復刊54号 通巻154号 1965
北日本文苑詩と民謡社