その他

「巻頭寸言 紀元節と詩と日本と」

★紀元節復活問題は内山神奈川県知事提唱、佐藤首相提案から賑やかになった。歴史論、感情論等々、戦前、戦中、戦後各派等々の論議雑多だが、山本有三、平林たい子氏ら戦前派は強いて反対もすず、『国民が納得いくように』という常識論だ。各国にそれなりの『国の誕生日』があり、理由・根拠が国によって違うのは当然。わが日本となると『国の誕生日』は明治になって初めてきめたまでで、敗戦で尻切れになっただけの話。紀元節論議は長くなるから省くが、神武即位が伝説ならキリストや釈尊の生誕日とて伝説だ。舶来・事大・模倣『日本』は外国の事となると鵜呑みにする癖に自身の事となると十八番の日和見を発揮する。筆者は敗戦の8・15でもいいと思うが『国の誕生日』は自然発生的に、いわば宗教的感情の赴くままに放っておく方がいいという持論だ。国法での制定を喜ぶのは月給鳥共だが、無理に世を騒がせる要もない。佐藤首相は下からのツキアゲに従ったのだろうが、紀元節は国旗、国歌と同様で国民感情に委ねた方がいい。理屈でない問題なのだ。
★2月6日第16回読売文学賞で「詩歌・俳句賞」を貰った蔵原伸二郎氏の詩集「岩魚」は飯能在住20年を祝う地元の若い詩人達が計画出版(学ぶべき美挙だ)したものだが、絶対安静・入院中の蔵原氏の言によれば『今まで西欧の詩論や詩も研究してきたが、同時に東洋には以心伝心的な東洋独特の詩論が存在する。この東西の詩論を生涯の念願として何らかの形で纏めたい』そうだ。蔵原氏にして今になってこの言ありでは?と思う。他は推して知るべしで、舶来・事大思想の亡者詩人共はミイハア族から脱皮して早く大人になれ!
★村野四郎氏は「現代詩の課題」(2・5朝日夕刊)で!いわば日本の詩人達は最も手近にあるものを忘れて己にないものばかりを血眼になって追いかけてきた(中略)真に類型を拒絶する詩、一人に千回読まれる詩の源泉は決して平易ではあり得ない(中略)今日の現代詩人への最も重大な課題は、詩を易しくすることでも、難解を恐れることでもない。真に難解に値する『日本の詩』をかく詩人が、いかに少いかということへの反省であろうと迷べている。無駄に年輪を重ねたのでないことを示しているが、問題は作品が先で詩論が後だということだ。理論でいい作品が生れるのは科学の世界で、芸術の世界でない。
★新年号の本欄で三木露風、河井酔茗両氏の事に触れたが、相次いで急逝して驚いた。別に私の筆のセイでないが、何だか申訳ないような気がする。河井氏は天寿だから仕方ないにしても三木氏の場合は無念至極だ。交通戦争を憎まずにおられぬ。人命尊重をいう佐藤首相らはせめて三木氏に詫びる位のことをしてもよかろう。
(2・11苑紀元節の夜、中山輝)

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第23巻 二・三月合併号 復刊52号 通巻152号 1965
北日本文苑詩と民謡社