なぜこうも良い詩人達が次々慌てるように先立って逝くのだろう。憶えばここ一年余の間に古谷玲児、伊福部隆彦、藤田日出雄、花沢豊、藤田健次、吉沢独陽、木山捷平、古賀残星、佐藤義美等の人々を失い、春とは名ばかりで残雪なお茅居の前に眼を尖らせ、胸底寒風が吹き荒れている思いでいるのに湯山(今更改めて「君」づけでは他人行儀だとあの世で文句をいうだろうから、昔通り呼びすてにする)の訃を早川嘉一君から電話で知らされ、愕然、まだ半信半疑だ。(昨年正月10日夜9時頃、同じく早川君から電話で伊福部氏の急逝を告げられ茫然自失したのと同じだ…)
2月27日夜9時頃、湯山宅から今帰ったという早川君の声。同時に親友大志摩良幸君(富山市医師会長、前富山市教育委員長。山本宗間君の従弟で島田信義君らの親友)も同日未明急患手術中急死したという。哀傷、痛恨無限!
湯山が私の門をたたいたのは約40年前富山商業一年生(源氏鶏太君卒業の年か早川嘉一、深山栄諸君の後輩に当たる)の時だった。秋の某日母堂が来訪されて「学校から呼び出され、通学していないのを知り」と嘆かれ、叱るようにと頼まれた。呼びつけて叱ったが、転校生の上厳父に死別し異土(金太郎の足柄山の下の村出身)に馴染めず、同級生に疎外され、孤独に耐えられず、呉羽山を一人歩きして弁当をたべていることなどを云い結局、母堂の願いや私の叱言に背いて退学してしまった。
当時、私は色々の連中をコンビにさせていた。例えば川口清と菊地久之(作風も性格も正反対組)等々だが、湯山は高柳三郎(同類項)と組ませた。後日、高柳とも親交の浜谷信吉は湯山の妹さん(当時新宿のムーランルージュの女優)に惚れたりした。高柳、浜谷らは戦死したから、湯山は長生した訳だ。戦時中、穴生芳、(竹内芳雄)と共に六桜社に勤めていたが、戦後、25年秋、私が茅屋新築中で大工の家に間借り中、突然転がり込んで来た。なぜ事前に連絡しなかったか、就職先、下宿先をきめてやれたのに―と云ったが、仕方なく色々面倒をみなければならなかった。自来、散々尻拭い(樋口義重と共に)させられ、北日新聞時代、私の悪習慣に似て朝来酒臭い息を吐いて偉張り散らし、重役共に私に嫌味をいわせる口実を与えたりした。
だが、誰からも愛されていた。少年時代からの孤独に徹した揚句、孤独でなくなり、生死一如に悟入(詩に一端が出ていた)また自主独立精神が強く(私に無断で北日本新聞社をやめて転々、近年独立して「暮らしの新聞」を創刊)天衣無縫(或る点山岸曙光君に通じていた)好きなように生き、晩年は私を困らせなくなった。
スガ子夫人と結婚した当時、親代わりで夫人の実家へ一緒に挨拶に行ったりしたが、真君がもう10歳だという。少年時代から私を父のように思ってか、甘えていたが、一昨夏五年ぶりに帰省し「古今」での歓迎会の席上、私の前へ酔って来て雑音を入れるので「コラ、湯山」と叱ったのが今生での別れだった。酔うと私自身忘れていた私の古い自作自曲民謡「ぺれすけどん」を歌ってくれた。これを歌って川口、菊地、樋口、山岸や松本つねを、麦島紀麿等を偲び、私の心中を代弁していたようだ。憎めぬ可愛い男だった。再び甘えてくれなくなったと思うと寂しい。
「暮らしの新聞」を読み、何かとやっているワイと安心し、他日帰省したら「ぺれすけどん」を聞かせて貰える、と楽しみにしていたのだが…。早川君によれば死期を知って遺言し、真君に会うまで死を耐え、ついに大往生したという。
「湯山、お前は俺よりエライ奴や」とほめてやりたい。
考えてみれば、湯山は自己主張に終始し、生き方に全力投球し、誰彼に可愛がられて汚土を辞去したのだから、幸福な男だった―と思う。今頃は川口、菊地、山岸等々と合評したり、歌ったりしていることだろう。書くと限りがない。山岸君の時のように「湯山、お前までもか」とドナリつけたい思いでいっぱいだ。
ただ、スガ子夫人、真君は今後何かと大変だろう。どうか、健在で!と願うばかりだ。なお、湯山の生存中も死後も親身になって色々面倒をみてくれた早川君に湯山に代わって深謝する。
(3・21春分の日)
掲載誌:『日本詩』 第27巻・復刊95号 通巻195号 1969 6月号 故湯山泰佑氏追悼特集