遠地輝武君 昭和初期から文通していたが一度もあわずじまいだった。ずっと前に本誌巻頭言で故小熊秀雄君の事を書いたら「よくぞ書いてくれた」を葉書をくれた。時々電話して「詩でもよこさないか」などと云ったが「病気でどこへも出ないことにしている、だが食わねばならんので何かと書いとるがネ」と云っていた。思い出しては電話で激励し「そのうち一度訪ねるから」というているうちに昨秋中野区江古田の武蔵野療園に入院し「持病が出たので当分療養する」という葉書をよこした。今度こそ見舞に行こうと思いながら「そのうちよくなろう」と軽く考えていたら、六月他界したという知らせを受けて愕いた。中野の自宅での葬式に参るつもりでいたが、急用が出来て不能になり申訳ないことをした。遺骨は好子夫人の命日の六月二十四日小平霊園の墓地に埋葬され香奠は全額を遠地君が属していた新日本詩人社へ寄付されたということである。本名は木村重夫といったが、一度あいたかったと残念に思う。
片桐良一君 家庭薬業を営んでいたが、事情あって生家を弟君に譲り、嫡男ながら独立して旅廻りをしていた。温良な性格で本誌創刊の頃からよく私宅へ来て民謡作品を見せていた。筋のいい、清純な作風で人柄がよく出ていた。戦後、胸を病んでねているというので焼け跡のバラック建ての家を見舞ったが、案外元気なのに安心した。床柱の短冊掛けに私が下手糞の字で書いた短冊がかけられていたのにびっくりし、暑い日だったが冷汗を覚えた。不意に訪ねたのだから、いつ書いたか覚えていない私の短冊を掲げていたところをみると、他に短冊を持っていなかったのだろう。『また来るチャ、元気でおれよ』と別れたが、その後間もなく亡くなったのは痛心の至りであった。篤実ないい男だった。
金山星窓君 やはり昭和初期に開健(嘉兵衛)増山欽哉(佐兵衛)長沢郁郎、開正秋等の諸君と共にいい詩を書いて富山では鋭鋒をあらわしていた。中々の文筆ですぐれた感覚と技法で東洋的な味のある詩だった。時々「詩話会」を開いたが、席上『君の詩は才智が溢れているが、もっと突きぬけなきゃ駄目だ。才にまかせて書くのはいいが、調子に乗っていると、いつかは自分で嫌になる。こんな詩は一冊の字引をパラパラと繰って左の頁の左上段の文字を拾い出しそれをテニヲハで綴り合わせると、いくらでも書けるし、思いもよらぬいい詩になることもあるような詩だ。折角いい天分をもっているのだからもっと深く堀り下げた、魂のうめきを書くといい』と苦言を呈したら『いやァどうも』と頭を掻いていた。普通の男なら満座の中で恥をかかせたと怒るところだが、金山君は謙虚にうけいれてくれていた。ところが、私の苦言のせいかどうか判らぬが、短歌へ転じ、歌話会の世話をしたりして、いい短歌を発表していた。不幸にも二十代の若さで胸を患って早世した。惜しい男だった。
片口泰二郎氏 今年の正月94歳の天寿を全うして他界した小杉町名誉市民第一号片口江東(安太郎)翁はもと県会議長もした富山県切っての政財界、文化界の最長老・功績多大の人格者だったが、漢詩人、歌人としても有名だった。江東翁について書くと長くなるから簡単にするが、昔から私を可愛がり、近年私の姓名よみ込みの漢詩を書いて私を激励したり、時々手紙や葉書で近況を知らせて来たりした人であった。長男安之助氏は歌人として知られていたが、若死にしてしまい、泰二郎氏は次男だが、音楽方面を志して東京で活躍、本誌創刊のころ、レコード会社を新設するから協力してくれと頼まれたりしたことがあった。志半ばにしてやはり若死にしてしまった。健在だったらどんなレコード会社になったか判らんが、一寸面白かったろうと惜しまれる。江東翁は泰二郎氏の行き方が気に入らなかったらしく、昔、泰二郎氏のことを云ったら、「フン」といってあまりいい顔をされなかった。
★加藤朝鳥氏 山村「暮鳥」氏の向うを張ったような名であるが、古くから尊敬していたので本誌をずっと贈呈していた。いつも叮重な礼状をよこされた。昭和十一年だったかの秋、故樋口義重君や名古屋の榊原清彦、原比呂志諸君と共に箱根―伊東―下田―大島めぐりをして上京した際、渋谷と池袋の二カ所で同日同時間に私らの歓迎会が開かれて戸まどいをしたことがあった。池袋では藤田健次氏らが歓迎会を開いてくれたが、渋谷では故久保田宵二、林柳波、高橋掬太郎等の人々が中心であった。この渋谷での歓迎会には加藤朝鳥氏が出席され、美青年の島田磬也、門田ゆたか諸君(今も美男子だが)のテーブルに腰かけておられた。池袋からジャンジャン電話で「まだ来ぬか」と促されたのであわてて辞去したため、加藤氏に一寸挨拶の言葉を交しただけで別れた。それが今生の別れであった。いつ亡くなられたのか、誰かに聞いてみたい。
金森精一氏 学校の先輩だったが、富山日報の泊町(富山県朝日町)販売店主兼支局長だったので、云ってみれば私の部下のような立場にいた。チョビヒゲをはやした好男子でいい歌人として知られていた。病身だったので、入院中に恋仲になった夫人は看護婦としてもよく働き内助の功が多かったが、残念にも子がなかった。金森氏が胸の病気で亡くなった後も、時々未亡人に会う機会があり、その度に歌碑を建てたいといわれた。碑石も境川の大きな自然石を用意してあるという話なので、庭に据えられたのを見たが、まだ歌碑が建ったということは聞かない。
菊地 亮氏 氷見の大きな名刹の住職で大正時代から佐藤惣之助氏の「詩の家」で活躍、沖縄で布教したり、晩年は社会福祉事業に没頭していた。氷見詩壇の盟主で高林清一、張田友次郎諸君と詩華船、聖詩風等の詩誌を出し日本海詩人の同人にもなり、ずっと私らの詩の会合によく出席してくれていた。数年前他界と聞いたが温厚な人だった。詩を書けというと忙しくてと苦笑していた。(8・31)
掲載誌:『日本詩』 第26巻・復刊86号 通巻186号 1968 7月号