★一月号本欄で一寸盗作、盗用問題に触れたが、最近流行作家が四人も揃って世評を賑わしている。盗作、盗用は以前に新年御歌会入選歌に二人もあったし、福井国体ポスターやその他マーク、デザイン、商標等々、ニュースに大きくとりあげられたが、殆んど無名、素人の応募作品だった。ところが、実力ある流行作家の場合は問題点が違う。五味康祐氏は作品「指さしていう」の書き出しに奈良市の詩人の随筆集から盗用し、大原富枝氏は戦前のプロレタリア詩人槙村浩氏を主人公に描いた「ひとつの青春」が高知在住作家の作品そっくりとて問題になり、山崎豊子氏は婦人公論に連載の「花宴」でレマルクの「凱旋門」と芹沢光治郎氏の「巴里夫人」の一部を盗用、五味氏は謝罪、山崎氏は三月二十九日日本文芸家協会を退会し謝罪・謹慎となった。さらに松本清張氏は文芸春秋に連載、出版の「深層海流」で三田和夫氏の三十年七月出版した「赤い広場―霞ヶ関」から十数個所盗作しているとて、四月二日三田氏から警視庁へ告訴される有様だ。丹羽文雄日本文芸家協会会長は「根本は各自の自覚如何にある」といっているが、自覚以前の問題だ。盗みは皆「金」につながり、貧乏人は少しの盗みでも警察沙汰になるが、流行作家は別らしい。これにはマスコミも一半の責任がある。論議している暇がないからやめるが、金にならぬ詩に盗作はないし、借り物もない。詩は祈り、一つの聖典だからだ。作品以前に人間性が問題であることをこの際じっくり考えるべきだ。
★京大生三人が遊び半分に作詩作曲して歌ってレコード制作をした「帰って来たヨッパライ」の大当りをはじめ、最近グループ・サウンズの作詩作曲合唱等が歌謡界で新ブームをまき起こし、各方面で賛否交々だ。単に現代っ子の熱病的な風潮(三派全学連の暴走も)を反映する流行歌にすぎないと笑っている訳にも参るまい。戦後花盛りのマイホーム主義(女性化、事なかれの自己中心主義)のテーマソングともいうべき「世界は二人のために」は幼稚で古い発想を現代っ子向きにしただけのものだが「世界は二人のために」でなく「二人は世界のために」へ脱皮させよの声も高い。最近「蒼い狼賞」(青年の活動的エネルギーを引き出すためのアイデア募集)が新設され公開審査が行われたのもその現われの一つだがもっと世界的視野に立って考えるべきだ。尤もグループ・サウンズ等のメロディ等は似たりよったりでモンキーダンス向きだし、幼児などは言葉などどうでもよく、新鮮で面白ければいいようで、そう向きになることもなかろうが…。言いたいのは予言者、警世家、先駆者である詩人が“流行歌なんか「職人」にまかせとけ、泡末のように消えていく”とばかり知らぬ顔をせず、幼児から青少年へ栄養になる良いウタを先輩が多数書き残したように、大いに書くべきだということだ。それが詩人たるものの責務の一つだ。
★言葉の意味を正確に解するか否かは今や世界的に大きな問題で、各国ともその首脳の言葉の裏を考え、疑い深くなり、世紀末の様相を露呈して一層人類全滅戦寸前へ追い込んでいること、いうまでもない。言葉の乱れは国の乱れと度々云ったが、言葉を正しく活かし“太初に言葉ありき”や“言霊の幸ふ国”の源流を改めて世に示すことが、現時点に立つ言葉の使徒(詩徒)である詩人の役割でもある。今度第18回H氏賞を受けた鈴木志郎康氏は「言葉が読む人の勝手な意味に解釈されるのが嫌で、言葉をそのままに伝えるため」わざと言葉から意味を抜いた詩を書いて意表をついたのは、時流への反発を示したものだろう。(これはこれでいいが、亜流が続出しないように願いたいものだ。)毒舌を吐けば、これとて言葉の羅列(昔の詩壇でも流行した)のようなグループ・サウンズ的なものだろう。H氏賞も段々選ぶのに骨が折れるようになったらしいテ。
★メーデーが近づく。メーデー歌も現代向きにプロレタリア詩人が作ったらどうか。古い“軍歌”でもあるまいと思うが如何。
(43・4・3正午)
掲載誌:『日本詩』 第26巻・復刊84号 通巻184号 1968 5月号 鈴木勝詩集「平らな頂上」特集