随筆

「おもいでの人々①―詩人・歌人・俳人など―」

【前略】早川君は「わが生、わが死」を一頁に書けと再三下命するが、貴重なスペースを折半させて戴き、既知未見の今は亡き詩人(歌・句・柳・謡の人も詩人だ、尤も万人は書く書かぬは別として詩人)の名を五十音順に列ね、せめて在りし日を偲び供養の一端にしたい。もとより私や本誌に縁のある人を中心にして―。なぜこうして書くかに触れる。全国は観光と結んで建碑が盛んであり、健在な御本人を招いて各地で文学碑が次々建つし今後も建つだろう。中には自費で建碑して盛大に披露している御仁もある。生きている間に自分の墓を建てたり、生き葬式をしたりしている御仁もいるのだから結構至極(石匠や美術家や花屋を喜ばせ地元民に再認識させ、誘客の一如にもなる)で大いに奨励したい。詩碑等に親しむことによって次代をつぐ者が物質以上の高貴な精神美を指向するようになるとしたら、年々国土を狭くしていくつまらぬ墓の代りに全土に建碑(序に本人の墓をこわして一坪の畑にし、本人の骨を詩碑等に収納)し付近を緑化するようにした方がどれだけ国家社会のためになるか知れない。それは別として、有名人はともかく、地域社会の文化面に相当寄与したが、無名に近かったり、金持でなかったり、いい弟子がいなかったりしたために死後忘れ去られ埋れたままになっている人も少くない。そのため遺族すら『一文にもならぬ詩など書いて自己満足していたのか』と故人の生命ともいうべき精神美(詩文へ流露凝結)を忘れ去ろうとしている嫌いがある。師よりも弟子が有名になったばかりに生きている弟子の建碑ができたが死んだ師の建碑はいつになるのやら―という例もないではない。これでいいのか。詩碑等も建てた後放ったらかしで草に埋れたままにしている向きもないではないが、建てぬよりもマシだ。だが、永い月日の風雨に磨滅するかも知れない。そこで、そんな詩碑などの代りに、全国的に愛読されているため恐らく磨滅しないと思われる本誌に故人の名を留めて、故人の遺族、特にその子孫に父祖の精神美を偲んで貰うヨスガとし、私自身、故人への供養の微意を献じたいと念ずる次第である。手許に資料がないしスペースが限定されているから、うろ覚えに略記し、誤りの御叱正を願う。
相川俊孝氏 藤森秀夫氏の富山市桃井町在住時代よく会い、金沢の石切場風景の日本画を藤森氏を通じて貰ったが、令弟松瑞画伯(富山市へ移住)と同様酒豪で、戦後酒を求めて金沢近辺の詩人を訪ね回り酒で他界したと金沢の詩人連中から数年後聞いて暗然とした。大正時代一冊の詩集を出したきりで郷里に引込んだので晩年振わなかったが、いい人だった。
秋川寂子君 本誌創刊前から出ていた本誌の主流ともいうべき新詩脈(東洋精神・北方精神・地方精神を旗印とし川口清→菊地久之→高柳三郎諸君が順次主宰)の同人で以上の諸君や源氏鶏太(田中富雄舟川栄次郎、小笠原啓介、和仁市太郎、北島助三郎、早川数江等々の諸君と共に独自の詩を書いていた。五百石町の浦和たみ子、滑川町の渡辺(早川)数江、水橋町の秋川寂子の三人は女傑三羽ガラスであった。九州へお嫁に行くとて私の勤め先の北陸タイムスへ挨拶に来た時『御主人が理解あればいいが、理解なければ詩筆を絶ち、俺へ一枚の葉書もよこしてはならぬ。真の詩は何であるか、今更いうこともあるまい。いい生き方をせよ』と戒めたら、数歳年下の美少女は素直にきいてくれ、下関の消印の葉書に『先生の御教えを胸に抱いて見知らぬ人に嫁ぎ最善を尽します』云々(車中での走り書き)を認めたのをよこし消息を絶った。純真な人生詩が巧かった。
生田春月氏 瀬戸内海で投身自殺される数ヵ月前、私に何かに書いた寸評(当時貰っていた全国の詩誌の作品中、めぼしいものに寸評を加えていた)を不満とせられ「愛誦」だったか忘れたが、有名な月刊詩誌の文章の冒頭で、私に対し釈明的に反駁せられた。まさか間もなく自殺せられようとは夢にも思っていなかったので無礼千万にも更に反撃しようと思い一枚の葉書も出さなかった。私は早大予科時代「感傷の春」や「霊魂の秋」を読み尊敬していただけに、聊か失望して寸評した(敬愛のあまり)のだったが、花世夫人との問題などでノイローゼ気味になっておられたのだろう。それを知ったのは後の祭だった。私のような田舎者の無名の末輩に対し色々手紙を下さった上『田舎の何も知らぬ小僧が何をいうか』と笑殺されれば済むものを特に有名誌で柔軟に釈明せられたのに、誠実に生き貫かれた「殉情詩人・生田春月」のお人柄が偲ばれ今猶心痛む。氏の門下生にやはり故人になった多くの知友がいるので猶更である。
伊良子清白氏 19篇かの薄い「孔雀船」を読んだのは早大図書館でだった(野口雨情氏の「朝花夜花」等々と共に)が昭和二年創刊した「日本海詩人」や本誌に近作を寄稿してほしいと葉書を出したら『孔雀船以来、詩を書いていない。永い間空白があるので何を書けばいいか判らない。生きている間に何か一つ自信のあるものが書けたら、折角の志の頼みだから書いて送る』という叮重な御返事だった。催促してはいけないと思っているうちに他界せられて残念。「詩は人也神也一切也」を泌々思う。(5・26)

掲載誌:『日本詩』 第24巻・復刊66号 通巻166号 1966 8月号