☆66年度ノーベル平和賞候補に日本から小泉信三氏ら学者グループが推薦手続を終え吉田茂元首相が推薦(故賀川豊彦氏に次いで二人目)された(41・2・3読売)げな。何でも(平和憲法治下)平和平和を口実に闘争に夢中の日本だが、推薦はタダだから遠慮せずに毎年何人も推すがいい。きめるのは先方だから気楽で、推薦することによつて「真の一つなる平和」を願求できる資格者は日本人だけだというPRになろう。尤も現実の平和は幾つも(ソ連中心、米国中心等々)ある。現に1月8、9両日開催の第7回民主社会主義研究会議全国集会で“平和運動にイデオロギー的色彩が強く事実を歪曲している場合も多く(中略)現実を直視しない傾向は学生運動にも見られるので云々”と歪んだ平和運動の検討への結論が出たようだ。(41・1・19読売夕刊蝋(旧字)山政道氏)真の平和への希求は政治経済等の面では無理で科学・宗教・芸術の上にある詩神以外になかろう。万国の詩人よ団結せよ!だ。日本も貰うことを考えず与える方に廻つたらどうだ。筆者が大金持なら「中山平和賞」を世界の誰彼に受賞するのだがネ。残念至極だ。
☆「文学は何のためにあるか」の問いに武者小路実篤氏は「純粋に本気になつて書きたいことを書けばいい」(群像3月号)とし他の作家と共にいさかか的はずれを語つている(今目的論を書く暇はないから省く。文学だけでなく芸術の目的について考え直すべき時点へ来ている)が、作家高橋和巳氏は「詩そして文学は志の表明」とし詩経大序の「詩は表明」とし詩経大序の「詩は志のゆく所なり。心に在りては志と為り言に発すれば詩となる」を引用し「志ある文学」を説いている(41・1・27毎日夕刊)また成瀬正勝東大教授は幸田露伴が昭和12年6月の文化勲章受章祝賀会で中国詩人(特に屈原)を引例し「国家社会から冷遇された者が、その心の中から出た叫びを詩とした時多くの優れた作品が生まれること」を説いたと書いている。(41・2・23読売夕刊)武者小路氏の言と多少通ずるものがある。政治不在の今日、世界最終戦への不安や物価高等に泣く底辺の庶民の志を日蔭の詩人が叫ぶべきでないか。
☆序にいうが、国語・国学の乱れは甚だしいし外語・新造語続出で日本人同志意志が通ぜぬ当世になつたので一つ提案する。名は体を現わすというから作家を文士(来年は明治百年だからね)にしたらどうか。代議士、弁護士、操縦士、運転士、機関士等のように…。詩人も志士がまずければ詩士にしたら如何。少しはマシなものが書けるようになるか。呵々(この字も若い人には無理か)
=3・7夜 中山輝=
掲載誌:『日本詩』 第24巻・復刊63号 通巻163号 1966 4月号