随筆

「能村潔氏詩集「反骨」上板祝賀会の記」

★能村潔氏詩集「反骨」は38年夏出版されたが、その祝賀会は40年一月二十四日早川嘉一君を迎えて本誌の関東地区在住同人が初会合を開いた折、内輪だけで些やかに催したものの、一般的なものは開かれていなかった。これは謙譲な能村氏が『人さまに御迷惑をおかけしては』と固辞されていたためであった。それを38年来、私と宮崎健三氏らが遠慮する能村氏に何度も話をして漸く承認を得たので十一月七日の日曜に開くことに漕ぎつけたわけである。最初は十一月三日文化の日に新築されたばかりの国学院大学院友会館で―としたが、三日は行事が多くて誰彼が都合悪いので七日に延ばし、出席者も予想より多くなりそうなので銀座サッポロビヤホール6階にし、古谷玲児君に頼んで大ホールを借り切りにして貰った。パーティー形式では混乱するので座席形式にと頼んでおいたが、行ってみるとパーティー形式になっていたので弱った。開会直前なのでお客様の目の前でテーブル、椅子を並べかえるわけにもゆかず、仕方なく諦めた。テープレコーダーの用意も頼んでおいたが、いざとなってみると宮崎健三氏は『故障していて使えない』というので、能村氏には本当に申訳のないことになってしまった。この録音が頼んだ通りになっていたら、賀客の祝辞の内容も紹介できたのにと残念至極であり、冒頭にお詫び申し上げておく
★さて、七日の祝賀会は詩壇、文壇、学界等の二〇四人(本誌では尾沢徳太郎、木古内豪、沢ゆき、早川嘉一、早川数江広田宙外、藤森ゆき、宮崎健三、安田征郎氏ら)発起、その発起人代表には浅野晃、浅原六朗、安藤一郎、岡村二一、大木惇夫、角川源義、金田一京助、神保光太郎、田中準、中河与一、服部嘉香、林房雄、人見円吉、村野四郎、村松正俊、矢野峰人諸氏になって戴いた。世話人は同人の宮崎健三、早川数江、尾沢徳太郎氏らで、受付は手馴れている日本歌謡芸術協会常務理事花沢豊氏に当って貰った。
★さて、七日午後二時開会予定のところテープレコーダーの故障のことやら、祝辞を戴く予定のお方未着のため30分延ばして二時半開会した。主賓能村氏と百代夫人は満場の心こもる拍手の波に迎えられて入場、正面に着席する。二百人の収容の会場は英国風、豪華な装飾に輝き、賀客は壁、窓際に長方形に着席、椅子が足らなくなり補助椅子をボーイに運んで貰う有様。司会は宮崎氏にと思ったが、会場設営、連絡、進行、運営等の総指揮を宮崎氏にして貰わねばならぬので私が勤めることにした。出席者は一月号所報の通りだから氏名は省略するが、出席するとの案内のあった梶山孝之、兼田登佐子、木古内豪、滝口雅子、中島京子、服部直人諸氏は急用ができて不参となったのは残念であった。
★先ず、各自自己紹介の後、発起人を代表して浅野晃立正大学教授(詩集「寒色」で読売文学賞を受賞)が開会の挨拶を述べられ
▽浅原六朗(作家、日大教授、童謡てるてる坊主」の作者)▽安藤一朗(外語大教授、日本現代詩人会の前会長)▽石田吉貞(中世文学の権威、文博)▽井出文雄(財政学権威、横浜国立大学経済学部長、経博)▽神保光太郎(能村氏が一時、少年期を送った山形市出身、日大教授)▽田中準(法政大学教授「上田敏と海潮音」等の著者)▽中河与一(作家、明神嶽踏破の足で参会)▽高崎正秀(富山市出身、文博、日本学術会議会員、国学院大学の前文学部長、能村氏の一級上)▽志田延義(富山出身、文博、歌謡史研究の第一人者、故志田義秀文博の令息で、能村氏が国民精神文化研究所で受講したことがある)▽神蔵重紀(学芸大学教授能村氏が奈良女子師範学校時代の同僚)▽勝承夫(日本音楽著作権協会評議員会議長)▽五十公野清一(野球小説でヒット、能村氏の山形新聞記者時代からの交友)▽塩田光雄(能村氏の教え子代表、横浜市計画局長)▽藤本義一(サントリー宣伝部長、曾て詩誌「航海表」編集、現在NHKTVドラマ執筆)▽北原良太郎(北原白秋氏令息、西田哲学を京大で専攻、白秋作品に鋭いメス入れを開始)=順不同 諸氏をはじめ、次の諸氏(スペースが乏しくなったし、肩書や能村氏との関係などの註を付記すると長くなるし、紹介の要もない有名人だから氏名を順不同で書き列ねてお許しを乞うことにする)
▽安東英芳▽岩佐東一郎▽金子秀夫▽久保田正文▽笹沢美明▽杉本駿彦▽永田東一郎▽田中冬二▽三ツ村繁▽大和資雄▽安部宙之介▽西崎一郎▽鹿島浩人
その他の諸氏(まだ居られたようだが、私も酔っていたし、胸につけておられる名札を見て指名するので記憶がはっきりしない。間違っていたり、洩れていたら海容乞う。こんな点、テープレコーダーに録音できなかったのは返す返すも能村氏に申訳なく、残念だ)は次々と能村氏の「反骨」精神や半世紀に及ぶ詩業、功績、作品の独自・卓絶、学究の偉大さなどを讃え祝福し、今後への期待・希望などを述べ、能村氏夫妻を感動させた。
★はじめ祝辞を頂戴し終ってから祝盃を挙げて貰う旨断ったが、時間が相当かかるとみた宮崎氏の注意で、祝辞数人目で詩壇の最長老の日本詩人クラブ会長正富汪洋氏(82歳)に能村氏への祝盃の音頭をとって貰い、開宴中に一月号所報の通り日大文芸学科研究室代表塩野民江さんから能村氏へ、本誌同人早川数江氏令嬢から百代夫人へそれぞれ花束が贈呈されまた宮崎氏は前項の祝電を朗読した。祝辞を述べて貰う予定だった南江治郎、和田芳恵その他の諸氏は都合で早退、また館美保子、藤森ゆき、朝森弓子氏等の閨秀詩人は遠慮されたのは惜しかった。途中で能村氏の教え子・村山伊吉氏(日大出身、大日本印刷KK製版主任)によってスナップや記念写真を撮って貰ったりした。パーティー形式のため交驩盛んとなり歓興高潮したので余興に移り、最初に高崎正秀文博に「越中おわら節」を所望したが、古歌二首を撰んで名吟ぶりを発揮、永井鱗太郎氏は十八番のインドネシア民謡二曲を身ぶり面白く歌い、本誌の島田信義医博は「越中おわら節」(つい釣りこまれて私は富山県五ヵ山のコキリコ節)誰かが声量豊かに歌曲を歌って主賓夫妻へ餞けとするなどで賑わい、能村氏の謝辞あって女性代表(名を聞き洩らして失礼)の発声で主賓夫妻の万歳を高唱して六時すぎ散会した。
おわび “反骨”上板祝賀会は内容において稀有のすばらしさであったようだが、私としては生れて初めての失敗づくめで意図・計画に反する結果となり、能村氏の御期待外れに終ったのは終生の恨事だ。第一に冒頭に書いたように座席形式になっていなかったこと、第二にテープレコーダーの不備、第三に花沢豊君に済まないが、写真代の事務的処理、第四に賀客の印象を悪くしたかのようにみえること等である。これらについて弁明させて貰うが、私は10月下旬~12月下旬七回目の悪性感冒の上、胃潰瘍・痔疾の再発に苦しみ何かと忙殺され、11月5日万事を宮崎、花沢諸氏に頼み、6日朝、日本歌謡芸術協会の所用で正副会長揃ってという所から白鳥省吾氏御夫妻のお伴をして福島県平市へ出発、当日の七日正午帰宅、出欠の返事、祝電等を調べ会場へかけつけたのは定刻寸前であった。これらのため連絡不徹底となった。案内状は予定を越える三百数十枚出したので、早川嘉一君歓迎会の場合と同様の比率での出席を算定したのも誤算であった。折角私が病床から這い出して一々宛書をかき切手を貼り、返信ハガキも同封して出したのに返事をよこさなかった人もあったのには愕いた。有名人に違いないが無礼千万(本人は反対に思ってるかも知れぬが)でその人の人柄が判る。これもいい勉強になった。付箋づきで戻って来たのは一通もなかったからなおさらである。尤も私が勝手に出したので、本人も勝手に返事しなかったのかも知れない。こういう名士(名は特に秘しておく)が指導者面しているのだから呆れ果てる。お詫びが脱線して申しわけないが、敢て付記して自戒自省の資としておく。
 また、写真や礼状等も越年しているのも申訳なく、これら一切の責は私にあるのであり、この文も1月号の予定が遅れてしまい、能村氏に前号に略記して貰ったことも私として重々お詫びのほかない。
お礼 お忙しいのに出席して下さった人々、芳志、祝電を賜わった人々、「反骨」を買って下さった人々、返信を寄せて下さった人々にお礼を申し上げると共に当日、万端心配して受付等の労に努めて下さった宮崎健三、早川数江、花沢豊諸氏、尾沢徳太郎君や日大文芸学科研究室の方々に御礼申し上げる。
付記 愚痴を並べて申訳ないが、昨年は散々であった。毎月のように不幸が続き11月家内の従兄、12月私の亡母の唯一人の肉親の叔父(89歳)が死ぬなど、身心とも傷つき身も世もなかった。それが依然と続いているのでこの文も不備のまま終らせて戴く。
(41・1・6中山輝)

掲載誌:『日本詩』林光則詩集「朱泥」出版特集 第24巻・復刊62号 通巻162号 1966 2、3月合併号