★「聖しこの夜」のメロデーが巷を流れ、ジングルベルを幼児も歌っている。今ごろベトナムの惨劇も暫しの平和(各自勝手な世界観の)を保っていよう。大乗仏教王国・日本も商略に溺れ基督が何者かを知らぬままに浮かれている。「聖しこの夜」は1818・12・24夜、オーストリア国オーベルンドルフの聖ニコラス教会で初めて歌われたが、副牧師ヨーゼフ・モールの即興詩に親友オルガニストのフランツ・グルーバーが作曲したのだそうだ。こうした詩曲(元来宗教的なものなんだ)で世界が基督を知るようになっていくが、ここらで讃仏歌の詩曲が日本から生まれ仏教伝来の逆に日本―朝鮮―中国―印度へと流れていくようにした方がよかろう。中印両国の争いの上にプラスになるように…。山田耕筰氏が元気なら曲を願いたいのだが…。
★楽聖ワグナーの言でないが「新しい世界を創造する」は誰彼の願望だ。この願望への各人の考え方の違いが行動の違いになって世界を悲嘆させている。核戦争準備に夢中の世界列強はベトナムを軸に夫々自分本位の「新しい世界の創造」を争っている。彼らは物資しか見ず、ベトナム戦―米中戦―人類全滅戦へ私らをも追い込んでいる。彼ら物慾魔に真正の「新しい世界の創造は敬天愛人の精神世界の創造なんだ」と否全世界の詩人は今こそ両陣営の頭上に新しい詩曲「天の声」を声高々と轟かせようではないか。
★レコード大賞を7年前提唱した古賀政男氏が65年同賞を貰ったが、私は常々日本人は、日本人の精神を忘れてはならない(中略)最近は国籍不明の歌がもてはやされる傾向にあるようだが、私は日本人が日本人の魂を持ちその個性を出した歌がもっと出てほしいと願っている」旨語っていた(40・12・5朝日)。これは曲の場合だが詩も同じだ。ドダイ非日本人が多すぎる。英語は上手だが、国語が落第の大学出が目立つ。“いくら語学の成績が優秀でも日本語による表現能力のない若者は日本では使いものにならない”と暉峻康隆早大国文科教授は「国文学」12月号の「卒論廃止論を嘆く」の冒頭で述べているし、原子朗氏は12月9日付朝日で「現代日本語にはオーソグラフィ(正書誌)はないに等しい」と外国学生からいわれていると述べ「詩人は一般読者をもたず、ただ詩人に向って書き(中略)もはや文学に“厳格”を期待しても無理と嘆いている。個性を失っている日本人に失望するのは異人さんとは皮肉でないか。一年間読売で詩時評を書いた安東次男氏は12・17付読売の「詩檀この一年」で色々書いていたが、結論は前述にあるようだ。新しい年にこそ「新しい世界を創造」して敬天愛人の詩曲を大いに生んで一つなる世界の空に贈ろうではないか。
(40・12・24夜)
掲載誌:『日本詩』林光則詩集「朱泥」出版特集 第24巻・復刊62号 通巻162号 1966 2、3月合併号