(元北日本新聞社長)
愛というもの (1)
愛というものは、一体何んだろうか。昔から今日に至るまで、これほど簡単で判り易い反面、複雑で難しいものぱない。
簡単な辞書では、愛とは①かわいがって大切にする心(愛情)②異性を恋しくおもう心(恋)③ものごとをこのむ心――とある。こう割り切って簡単に扱えるものなら、別に問題はないだろう。
思いつくままに「愛」の字のつく文字を並べてみると、愛情、哀惜、愛想、愛憎、愛憐、愛着、愛執、愛撫、愛敬(愛嬌)、愛慕、愛育、愛護、愛用、愛玩、愛顧、愛欲、愛読、愛称、愛唱、愛器、愛妾(児・嬢・息・孫等々)、愛馬(犬・猫・鳥等々)、愛校、愛社、愛郷、愛国、愛他(主義)、愛人(西郷隆盛の敬天愛人の意味もあれば、恋人、情入の意味もある)など、キリもない。これは愛の字が上についた方だが、下についたのを並べてみると、前述の愛情を逆にした情愛(似たたようなものだが、愛の一字の置き方によって重点が変わり、中身やニュアンスが違う)、同性愛、父性愛、母性愛、兄弟愛、肉親愛、友愛、家族愛、恋愛、隣人愛、母校愛、祖国愛、盲目愛、同胞愛、人間愛(人類愛)、万物愛、絶対愛など、これも沢山ある。
文字と言葉は難しいもので、英語だとラブぐらいで旅行のだが、ロ不語となると「愛」というものは、以上のように文字の上だけでも、ピンからキリまでになる。これは西洋人と東洋人・の違いからだろう。御存じのように西洋人は狩獄民族で肉食(従って残酷さが強く、有色人種なんか豚ぐらいにしか思っていないような面がまだ出ている)人種で自然を征服して利用し、合理的に科学的に実利的に、まァドライに出来ているし、都市(市民)中心の文明主義等々である。これに対し、東洋人、殊に日本人は農耕民族で菜食(従って柔和なこと、菜食の牛馬の如しか)人種であり、自然崇拝から、神(自然)人合一、近年までは自然愛護へ(現在は誤まった西洋かぶれで、自然を破壊して利用するのが近代化だと思って低能、無能ぶりを露呈している。一部少数の人々が〝方万葉に還れ〟と万葉精神復興を展開しているが……)という風であり、情緒的に芸術的に………まァウェットに出来ていて、どちらかといえば田園(農民)中心の文化主義であったから――といっていいだろう。
日本人自体、原始時代から白色人種はもちろん、ホテントット等々に至るまでの東西南北の人種が移動、漂流等をして来て各人種がミックスされ混血していること、いうまでもない。周回の人々をみると、ユダヤ系のカギ鼻(或る人が私に言ったのでよく気をつけてみたらナルホドと思ったが、某宮様はカギ鼻だった)あり、スクナヒコナノミコトの子孫かと思われるような(ホッテントットまがい)背の低い人、お釈迦さんの親類かと思わせるような赤荼けた縮れ毛の頭髪の人、その他、父祖を偲ばせるものがある。私は昔から日本海沿岸、殊に北陸・山陰の人々に朝鮮人やダッタン人等の子孫だといい、富山県人などはその上にアイヌの血がまじっていると言っているが、伊福部無為大人には「アンタは大国主命の子孫だ。大黒様によく似た顔をしている」と冗談をいったりした。当たらずといえずとも遠からず、だろう。 脱線(これは恒例だが)して申訳ない。
日本人は血の上で各人種がミックスされている上に、印度を出発点として東漸し、中国、朝鮮を経て終着駅「日本」に辿りついた東洋文化を消化して血肉とし、開花結実(もっとも孔子、老子等の教えなど古代中国の文化を独自のものにするまで約千三百年かかり、西洋文明摂取は百年しかたっていないところに問題点があるが)させ、今や印度、中国、朝鮮等の古代文化か勉強するには、日本へ留学しなければならない、となっている。一方、印度を基点として西進し、欧州を経て新大陸アメリカで開花、結実した文明は、黒船以来日本に滔々として流れ込み、時々食中毒をしたりしながら、ここ百年来、ともかくアメリカの植民地の奴隷(ソ連の奴隷やら中共の奴隷やら、ドレがドレやらどこを向いて奴隷ばかりで、自主独立精神に燃える清純な日本人は捜索願いでも出さねば見当たらなくなっている)的な形ながら、消化しつつある。早大校歌の「東西古今の文化の潮、一つに渦巻く大(今は小)島国」でないが、一応、東西古今の文化、文明が渦巻いているところは日本しかなく、生活習俗(味覚でも日本、中華、西洋と雑多)の上にもそれが如実によく反映している。これらが愛という一字についても、千変万化している所以だろう。
さて、本題に戻ろう。有島武郎かの作品の題に「愛は惜しみなく奪う」とあるが、これは愛欲の世界を指すもので、愛憎不二を意味したものといっていいだろう。私は「愛は惜しみなく与う」のが本筋という持論だ。 面倒くさいので、字句について書いていくことにしよう。
①愛情=これは情緒的なもので、理論ではどうにもならない。まァ、原始的というか自然発生的なものでヽ或る面では自然律=宗教精神=が生物に与えた本能的な母性愛につながるもの――といっていいだろう。これの有無が〝生奇〟の根源に発し〝生命〟という不可思議なものの尊厳性を支配する。流行歌の〝誰か故郷をおもわざる〟でないが、互いに〝生命の故郷〟をおもい、50億光年の彼方、大宇宙が無限への拡大しつつある未知の世界で新しい〝生命〟が生まれかおり不断の円(無有一体の禅等の境地)を描きめぐっているのを想えば、これなくして何の生命ぞということになる次第。
②愛惜=愛を惜しむ(ということは、愛というものの貴重価値を大事にし、一円の価値をも生かすために、一円のムダ使いも惜しむという精神で、ケチではない)と書くが、中国流の「惜愛」と同じ。多くは消滅した形(生命)への限りない愛情を示すもので、誰しももつところ。この後向きの心情が、勢い、再び現われないものに代わって〝生きている証〟として前向きの姿勢になり、勇躍する原動力となること、改めていうまでもない。
③愛想=よく〝愛想をつかす〟とか〝何の愛想もないけれど、まア召しあがれ〟とか、日常使われているが、文字通り「愛」か言動に「想」わせる一件の愛の表現である。近年この愛想がなくなったので、殺風景になった。昔は山川草本の愛想に応えて、人間族も愛想よくし、山や谷で、「やァ、皆さん、今日は」と、仮りの形に顕現している鳥・獣・石・水に挨拶すると、いわゆる神仏にかわって、伊勢大神宮の神鏡のように〝山彦爺さん〟が「反省したか」とばかり愛想よく答えてくれる。
④愛憐=すべて憐れむ心情を失ったらおしまいである。下手に憐れむと「馬鹿にするな」と怒られるがこれは日本人特有の「もののあはれ(哀・愛など同じ)に発するものだ。中には私の知人に貧乏を看仮にして、いわゆる「文化乞食」となり、憐れみを求めて脱税している賢明な人もある。憐ぱ隣と一字違いのため、下手に隣人を憐れんだりすると、大変なことになる。私も昔から馬鹿のため、この愛憐の表現を下手にしたため、笑われ、物心両面とも痛手を受け〝傷だらけのお秋〟ならぬ〝傷だらけのお輝〟となり〝誇り高き男〟が〝悪名高き男〟の屑となっている。まア、凡夫だからいいようなものの、次代を背負う〝賢人〟たちは、心されたいと願っている。
掲載誌:人生道場 昭和45年7月