空ッ風吹く二月十七日東京都南多摩郡多摩町の私立養老院一望荘で一人の老女がひつそり息をひきとつた。名は近江じん(七三)。そして四月六日さいはての釧路町の海が見える本行寺でささやかな本葬と四十九日の法要が営まれた。参列者は老女が花の十九歳の時、釧路新聞の青年記者石川啄木(当時二十三歳)に
小奴といひし女の
やはらかき
耳たぼなども忘れがたかり
と歌われたりしたのを偲んで、老いてなお美貌を残す遺影を眺めていた。
小奴、近江じんは四年前の十月養女ゆり子さん(四一)=弟の子=に伴われて、やはり釧路時代に養女(遠縁)にした富山市古手伝町で「祗園焼」の店を経営している坂下きよさん(五五)夫婦をたよつて富山に身を寄せ、県厚生病院で療養、昨年五月退院し、坂下さんの好意で多摩町の養老院へ移り、婚期まで逸して身の廻りの世話をする養女ゆり子さんや啄木の親友だつた金田一京助博士らのあたたかい眼に守られていたが、死ぬ間際に腸癌で苦しみながら『ああ、あの人が二階を歩いている』『でもあの人は死んでしまつたはずですねえ』と見舞客に口走つていたそうだ。啄木の歌の
死にたくはないかと言えば
これ見よと
咽喉の痍を見せし女かな
について、小奴は昨年四月富山の病床でこんな風にいつている。釧路で一二といわれた名妓小奴と焦躁・煩悶に苦しんでいる啄木とがロマンスの花を咲かせた五十四年前の二月、月夜の知人岬の浜を二人歩いていた時、啄木は突然、『やっちやん(小奴をいつもこう呼んでいたという)僕死にたくなつた』といつた。その静かな表情にドキリとして『この人は本当に思いつめている』と思つて、とつさに『死んではいけない。私も死のうと短刀でノドを突いたが死ねなかつた。その傷がここに』と子供の時のデキモノの跡をみせてウソをついて励ました。そのウソを啄木に明かさずじまいだつた。
小奴は啄木との短い恋を胸に、啄木が釧路を去つた一年半後に芸妓をやめ結婚したが、その時ミカン箱一杯にあつた啄木の手紙など全部焼いてしまつた。思い出を断ち切るためと夫への貞節のため―その後両親の故郷京都へ移り、娘貞子(二十四歳で死亡)を儲けたが離婚。釧路へ戻り、養父母が死んだので旅館経営を継いだが実弟の使い込みで旅館を売り、病弱のため或る道会議員の世話を受けたという。その旦那も死に、病気がちの身を周囲の好意で細々養つて来たというが、死ぬまで啄木の俤を胸に抱いていたそうだ。
(元北日本新聞社長)
掲載誌:『詩人連邦』1965年6月号 111号