随筆

「北島助三郎君のこと」

 北島君は昭和初頭、福野農学校生徒(先輩に淳歌・山本宗間、川口清、後輩に松岡賢雄諸君あり)時代、品行方正学術優秀(今でも然り)の生徒=川口清、菊地久之、源氏鶏太、舟川栄次郎白萍社々長、小笠原啓介(金沢・毎日記者)和仁市太郎(高山・美術工芸社長)早川数江(東京都調布市議)等の諸君と共に“新詩脈”で一国一城の若殿として鮮烈な個性を発揮。私も不及と舌を捲いていた北島君と同じ福光町の高女に佐々木信綱翁の愛弟子、野村玉枝歌人が吉井玉枝(令兄は吉井吉藤丸工博)でいた。
 北島君は野村歌人の後輩の奥様を高女卒業と同時に貰って三ヵ月目に出征し蘇州河戦で白衣の勇士になった。“不具の身、一生女房の重荷だ。今のうちに別れたら女房の幸福だ”と独断した。このため少し互に苦労し、私も夫婦を散々叱りつけた。北島君に勿体ない奥様だ。この山男、朴念仁、寡黙謹厳居士(酒、煙草も駄目)は寂光と号し(尊父に頼まれ雅号を使うなと叱ったら爾来、私宛に滅多に寂光を使わぬ)何でもござれの男だ。
 信仰、信念に生き、加越国境の山奥で装わず大自然を友に詩、生活一如にし木食上人のように一貫している。農協組合長(郷軍会長で追放)に担がれ陣頭にたっている。
 私が二年入院中、山奥から上京、一目あいたいとて朝着いて夜帰ったが、到々合わずじまい。終日、上野の西郷像の目玉を睨んで暮したとハガキをよこした。眼の中に入れても痛くない愛弟子の一人だ。

掲載誌:『北日本文苑 詩と民謡』1963年5月号 21巻5号