随筆

「民謡風景」のことなど

 ニューソング前号で布瀬富夫君が「思ひ出の人々」として藤田健次老、山岸曙光、鍋島富美恵両君への追懐を(私の事にも触れながら)書いていたが、恰もお盆(富山県では八月だが)であり、貴重なスペースを藉いて一、二蛇足を加え、各位の御参考に資したい。
 藤田老、山岸君のことについては詳述を避けるが、鍋島君について古い詩友から今でも時々訊ねられるので、民謡風景と彼のことを略述する。民謡風景はいずれ「詩と民謡」へ吸収合併するという山岸君と私の約束で出たもの(あとで実行)で、鍋島君は山岸君に下僕のように仕え(山岸君が上京して阿佐ヶ谷にいた頃「ナベナベ」と呼びすてにされていた)民謡風景を編集し、辛辣な寸評(甚だしいのは「バイタで叩き殺してやろうか」などと)を書いていた。私も山岸君も、才人であっても本当の詩が判らぬ鍋島君の批評などは妄評ならぬ盲評として無視していた。
 布瀬君は鍋島君の寸評から藤田老と山岸君が不和のまま他界云々と書いていたが、そんなことはなかった。少なくとも藤田老はそんな狭量な人ではなかったし、山岸君は恐縮して「敬して遠ざかった」だけである。その証拠を示そう。これは藤田老が亡くなって間もなく、はつ未亡人からいわれて、座敷に山と積んであった沢山の本や雑誌の中から、はみ出ているのを拾いあげて持ち帰り、最近引越し荷物を解いたところ出て来た民謡詩人、民謡音楽、歌謡詩人だけに基づくものである。
序にニューソング同人の名も散見するので、それらのこともつけ加えて置こう。
①民謡詩人第二巻十一号(昭和三年十一月号)に竹久夢二カット入り一段組みで恩田幸夫君の「独身者」「あいびき」や市村鐘一君の「何ぼ馬でも」に私の詩があり、柿沼正雄君は前号民謡短評を書いているが、千葉仔郎君の「労働小唄二篇」や私の「富山県電気争議の唄」等を褒めている。
②民謡音楽第二巻六号(昭和五年六月号)の一段組みに山岸君、恩田幸夫、生井英介、千葉仔郎諸君に私、二段組みに布瀬富夫、鍋島富美恵君(藤田まさと君も二段組み)の民謡がのっている。
この昭和五年に民謡風景、小詩「詩と民謡」が出ており、鍋島君の民謡音楽での民謡は今でも通る秀作である。少し飛ばして見よう。
③歌謡詩人第二巻十一号(昭和八年十二月号)一段組みに山岸君(阿佐ヶ谷時代)の「夢の銀座」など、二段組みに松丸完君の童謡がのっており、藤田老は「批評の態度に就て」との題で色々書き「現在の或る一部の若い詩人は餘りに私的感情に囚はれ過ぎて批評的原理がないばかりか、批評としての真摯な態度は微塵もないことを歯痒く思ふのである」と結んでいる。そして「盲蛇」「盲人鑑賞」「苦笑」等の語が見える。
④歌謡詩人第六巻六号(昭和十二年六月号)一段組みに山岸、布瀬富夫諸君の作品があり、布瀬君は小曲(詩は佐藤惣之助、民謡は野口雨情、童謡は藤田健次、小唄は久保田宵二、流行小唄は吉川靜夫)の選者になっている。
尤も大半は藤田老の代選だろうが……。
⑤歌謡詩人第八巻第一号(昭和十四年一月号)一段組みに山岸君の「特務兵の歌」。布瀬君の「雪山」等がのっている。このころは日華事変の最中で、多く出征していたりしているので、恩田君ら常連の名が見えない。
このように昭和十三年ごろも山岸君(当時私の部下、富山日報記者)は藤田老の雑誌に作品や雑文を書いている。
 山岸君が私の切言で富山へ帰り、私の推選で北陸日日新聞記者になったのは、昭和九年ごろだが、鍋島君は東京に置き去りになった形で、それ以来消息を絶った。山岸君も「東京で波止場人足をしているという噂だが、判らない」といっていた。鍋島君は単身でよく私の家へ来て、詩について質問していた。私は「真実と美」について云い、酒井梅次郎君(今はすぐれた俳人)が「馬糞に金蠅がたかって真実を求め、新しい美を探している」というようないい詩を書いている例を挙げたら、数日たって詩を書いて来た。見ると「馬糞をたべたらうまかろう」といったものなので「馬鹿野郎、小才でいい詩が出来るか」と叱り飛ばしたら、頭を掻いていた。
 鍋島君は布瀬君が書いていたように、中央公論や改造に有名人の向坂逸郎等のペンネームで論文を書いているとホラを吹くので、知らぬ者は本当にしていたが、私らの前では叱られると思ってか、一言もいわなかった。とにかく、面白い変人(というよりも「天才は狂人に近し」か)で、憎めぬ男だったが、山岸君にも見捨てられた恰好になり、ついに生死不明(多分東京で死んだのだろう)となって、可哀そうに思っている。(七月二十日)

掲載誌:『NEWSONGS』9月 8ページ