随筆

「早川嘉一君滞京記(下) 東京での会合と人など」

★ここで地方の若い人々のため1月31日の出席者などについて蛇足を加え簡単に紹介しておこう。それぞれ紹介の要もない斯界での著名人なのに貴重な紙面に割りこむ要もないという人もあろうが、本誌一、〇〇〇人の読者のうち知っている人は案外少いと思われるからである。一人一人かくと何百行あっても足らぬから五十音順、敬称略で簡単にする。
◇安部宙之介=三木露風研究等の著書が多いように露風門下の逸材。「詩帖」主宰。◇天彦五男=能村潔氏の教え子で詩集もあり詩誌「原形」(原型の方でない)は次号で7周年迎える。◇伊福部隆彦=今更紹介の要もないが、当代希有の文明批評家で詩・書・画何でも来いの大将、老子教の教祖。昨秋『人生道場』会館完成したが地方の同人ら上京の節は安く宿泊できるから重宝。東京タイムズに十数年毎日『今日の言葉』かを連載、月刊『人生道場』一五五号、同『無為』7周年に及ぶ。◇恩田幸夫=『新歌謡派』主宰、豊島局の課長さん。◇笠井雅春=「詩謡手帖」主宰、日本民謡芸術、日本歌謡芸術両協会常任理事。◇川上幸平=富山県朝日町出身で本誌同人・黒坂富治富大教授の令息だが多年NHK児童合唱団等の指揮者。◇木村徳久=日本民謡芸術協会常任理事。◇小林潤=オシドリプロ主宰、テイチクレコード専属。◇古茂田信男=野口雨情選集や「日本の童謡」等の編著多数。◇五味清花=日本民謡芸術協会常任理事。◇島田芳文=丘をこえて等のレコード歌謡作詩多数で音楽学院校長。◇島田磬也=テイチクレコード専属日本詩歌朗詠会主催。◇島田信義=本誌同人、育仁会病院等病院三つ経営の医博。私や藤田健次老、藤川克巳作曲家と同郷の立山町出身。◇島田ばく=工場主昨秋詩集出版。◇島来展也=コロンビアレコード専属、民謡雑誌主宰。◇添田知道=添田亜禅坊氏の御曹子で「添田さつき」が早判りする。随筆誌「素面」主宰。流行歌史、香具師物語等の著書多数◇玉置光三=日本民謡芸術協会副会長。◇高橋掬太郎=酒は涙か溜息か等の作詩多数、キングレコード専属。昔富山県生地町に兵籍があった。◇館美保子=大正時代からの閨秀詩人で四年前第三詩集出版(2・3月号で島田藤雄君が紹介)◇綱島嘉之助=紹介ずみ。◇月原橙一郎=色々の肩書あるが詩人で充分。◇寺内邦三=本誌同人、街燈工事会社の事実上の社長で日本民謡、日本歌謡両芸術協会常任理事。◇南江治郎=紹介は却って失礼能村潔氏が本誌で詳述。◇生井英介=日本民謡芸術協会常任理事。◇長田恒雄=仏教講演で忙殺の詩人。◇永井鱗太郎=福井時代、本名の善太郎で童謡誌「うたいます」主宰、童話作家で児童劇研究会主宰。◇中河与一=有名な作家。◇能村潔=紹介の要なし。◇橋本恒美=自然食料研究所常務取締役。◇畠山清行=松本富夫氏の「文明」編集同人畠山清身氏の令弟で橋本氏と共に特許出願中の「みどりのパン」を創製。◇服部嘉香=紹介の要もないが、早大名誉教授・文学博士で国語詩小史(38年刊)や詩集、歌集多数。◇花沢豊=紹介ずみ、日本童謡選集編著者。◇羽田松雄=紹介ずみ。◇早川教江=後述。◇広瀬充=紹介の要もないが日本歌謡芸術協会理事長で作品集多数。◇藤田健次=紹介の要もないが日本民謡芸術協会副会長。◇藤田正人=赤城の子守唄等作詩多数。藤田「まさと」をもじって喜劇俳優「藤田まこと」が出て来たので閉口の由。テイチクレコード専属、日本音楽著作家組合常務理事。◇穂曽谷秀雄=「自由国民」等編集、国語短歌研究誌「芸術と自由」主宰。◇松坂直美=肩書種々あれど省略、クラウンレコード専属。◇松本富夫=出版会社「世界文庫」社長。◇槙恵二郎=日本歌謡芸術協会理事。◇松本帆平=肩書は省略、詩人。◇宮崎健三=紹介無用◇三井良尚=印刷会社社長、日本民謡、日本歌謡両芸術常任理事。◇森山隆平=詩洋同人、「螻蟻」主宰(戦時中、富山県氷見市に駐屯)◇藪田義雄=紹介無用の詩人。

★早川君への激励の言葉が自己紹介に併せて諸家からそれぞれ述べられたが、残念にも聞き漏らした。テープにでも録音しておいて早川君に贈った方がよかったと下司のチエが後から出た。尤も早川君の胸底に刻み込まれているだろうが…真向いの席の高橋掬太郎は開会の前に『北日本文苑の名はつけん方がいいのではないか、昔から通っている“詩と民謡”だけでいいと思うが…』といい、宮崎健三氏は『経営上、幅広い文化誌の性格をもたせるために付け加えたので…』と釈明してくれる。高橋氏は『それならあべこべに“詩と民謡”の字を大きくし“北日本文苑”の字を小さくしたらどうか』と注意してくれる。この「北日本文苑」の名について誰かが『北日本文苑というのは一地方を限定していて小さいから、むしろ北の一字を削って“日本文苑・詩と民謡”にした方がいい』と提案してござったのを小耳にはさんだし、服部嘉香先生は『もう全国的な月刊雑誌になったのだからこれを機会に東京で後援会をつくったらどうか』といわれたようにあとで仄聞した。川上幸平司は三十数年前に山岸曙光君の『どんどどんど称名ヶ滝は壺をほります藍の壺』の歌を作曲したのを独唱したり、長田恒雄氏が立つと『よう親鸞聖人』と大向うから声がかかったり藤田健次老が立つと『よう、藤田健次健在なり』とハッパをかける声が出たり、どうやら諸家にも酔いが回ったらしい。甘党の綱島司会者や三井良尚、羽田松雄諸氏はジュースをすする程度だし、主賓の早川君、端然としているが、感激に酔うたらしい。朗詠の大家島田磬也氏は早川君のために自作の短歌

  雪国の富山に在りて詩歌の花
    咲かせる大人(うし)を我ら頌えん
  凛然と風雨に耐え香を放つ
    友によく似し白梅の梅
  「詩と民謡」この道険し貫ぬける
    詩魂は光る早川の大人

を音吐朗々と吟詠、この時ばかりは満座しイん静まり返り『巧いもんだ』の声しきり。

★鈴木勝千葉県議から『出かけようとしたら歯が痛くなったので病院へ来ていて間に合わぬので失礼する』との電話、また藤川克巳作曲家(黒坂富治氏の教え子)から『急に音楽教室での指導頼まれて高円寺にいるが来てもいいか』の電話など相次ぎ、千葉の市原三郎氏(花園詩人主宰)から
 『輝く北極星早川さん頑張れ』の祝電、出席予定だったが急用で欠席の作曲家水原英明氏、大村主計スポーツタイムズ社長からその旨に併せた祝電が舞い込む。都合つけば出席したいとあった加藤省吾、繩田林蔵、兼谷昌次氏らを待つうち時間が進み、島来展也氏急用で辞去、綱島氏から注意され、あわてて北日本新聞東京支社へ電話して面高カメラマンに来て貰い記念撮影、早川君の謝辞のあと、服部博士の発声で同君の万才を三唱、綱島氏の挨拶で午後四時半頃閉会。

★なお、畠山清行、橋本恒美両氏から寄贈の健康食・美容食・病人食「みどりのパン」の草陽パンと、松本富夫氏寄贈の雑誌「文明」を宮崎健三、花沢豊、早川数江氏らが配ってくれたし、服部博士は初孫を得た早川君に
  初孫を得て  嘉 香
 ぢぢといふに
 老いさらぼひし名なれども
 何か誇らしくうれしからずや

と書いて下さった。これは服部先生が曽て初孫を得られた時詠まれたのを、早川君が初孫を得たと知って書かれたものである。また館美保子さんは詩集を、島田磬也氏は前記の短歌を書いた色紙を早川君に贈られた。

★実は早川君に記念品を贈ったらどうかと誰彼から話があり、源氏鶏太、野村俊夫、風間光作、坂田浩一郞氏から「記念品代に入れてくれ」と欠席通知の手紙にそれぞれ金一封を同封して送って来ていた。しかし、記念品といっても貰う本人に何がほしいのかきかねば判らぬし、それを買う暇もないし、席上、記念品を渡すと『事前になぜ知らせてくれなんだ、なぜ俺を仲間へ入れなんだ』と誰彼に叱られるにきまっている。それに千円の会費の中から記念品代をヒネリ出すことも出来ぬし、別にその場で追加して頂戴するということもまずい。それで寄せ書きの画帳と色紙(色紙に書いて貰うのを忘れ、白紙で返って来たので、後日、早川君に求められて久しぶりに落書を書いたが……)で済ませ、源氏その他の諸氏の芳志はそのまま早川君に渡すことにした。こんな次第で不悪お許しありたい。会費を出しながら雑役係に廻ってノミクイすることも出来なかった綱島、宮崎、早川数江、花沢氏に深謝する。

★散会前後、私として初対面の人や久しぶりの人が相当あり、互に握手やら、肩の叩きあいやらで、一人一人にお礼をいう暇もない。伊福部御大は『二次会をやろう』と誘われるが、早川君は早川数江女史宅へ直行するという。階下へおりると渋谷白涙、畠山清行、橋本恒美、島田磬也、花沢豊諸氏が二次会を開いているので『他へゆくよりこの方が面白い』と参加する。早川君ももう解放されあとは数江女史宅で寝ればいいのだから氣楽になったらしい。そこへ高円寺からの藤川克巳氏、汗をふきふき駆けつて来たので各自メートルをあげ、それぞれ十八番を歌い出す。島田磬也がとっておきの口笛による渋い唄を出したので毒舌家の伊福部大人も『こりや推奨もんだ』と珍しく褒め出し、渋谷白涙氏は『森繁久弥の船頭小唄は俺が教えた節だ。どちらが本家か聞いてくれ』と、バイオリンがないのでビールびんに割箸で昔なつかしの大正時代の艶歌、さては渋谷氏作詩作曲の昔の流行歌を歌いヤンヤ。さすが昔とった杵づかで渋いし哀切の情深しだ。さあ、こうなると興いよいよ高潮、数江女史も『ゆこか戻ろか』などを歌ってとてもオバァチャンと思えぬ若い声を出し、藤川克巳氏も何か(何しろ、中部武彦君宅以来ノミ続けなのでトイレ通いで忙しくなり出し聞きもらした)歌い、伊福部教祖までステッキ(というより杖といった方がいい)をふりふり歌い踊り出す(これは初見参で多数信者には内緒)し、早川君もウグイスの声を出しはじめた。並居る外人客もびっくりしてアッケにとられながら眺めている。渋谷白涙氏は銀座三丁目で料亭「太郎坊」(天狗の僧房だそうだ)を経営してござるから銀座の主みたいなもので、七丁目のサッポロビヤホールも地盤だからチケットで盛んに酒肴の追加を命ずる。藤川氏もポケットマネーをボーイに渡している。何しろ銀座のドマン中で出入りの多い階下の入口近くで大声をはりあげての演芸大会を公開だから、附近に待機の美少女連も目を丸くしている。神妙?に謹聴しているのは畠山、橋本、花沢氏らで時計をみたらもう七時だ。数江女史遅くなると困ろうとあって、早川君の謝辞で散会。

★数江女史の誘いで近くのレストランに入り、夕食を御馳走になる。考えてみれば三人ともビール以外に何もたべていない。両早川君の話はつきないが、私の方は満腹したし、ついトロリ。八時すぎ四丁目まで歩く。数江女史、目のみえない早川君にネオンくるめく銀座の夜景を一々説明している。早川君、それを聞きながら肉眼で見るよりも、それ以上の美しさを、胸底に描いて刻み込んでいるようだ。三愛前の地下鉄入口で両早川君に別れたが、早川君は数江女史に手をひかれて同夜同女史宅へ。

★ここで欠席された人々からの音信を付記しておこう。
(略)
早川女子宅泊り 早川君は三十一日夜と二月一日夜、調布市国領町の数江女史宅で二泊した。数江女史の夫君早川栄治氏は発明の功労で先年紫綬褒章を貰った。工学博士だが数江女史と同じ滑川市出身で私の中学一年先輩の温厚な学者、数江女史は北陸法曹界の長老深井竜太郎弁護士(前富山県選挙管理委員長)や故鷹取北日本新聞社長の令妹渡辺ミサさんの夫君らとイトコなので、早川君も気楽に数江女史宅で寛げたそうだ。一日は宮崎健三氏に招かれ数江女史の案内で午後二時中野区江原町の宮崎氏宅へゆき、宮崎氏自慢の数種類の果実酒などを賞味し、数時間よもやま話に花が咲いたそうだ。夜両早川君から電話で喜びの報告。
白鳥省吾先生宅泊り 2月2日午後、数江女史に神宿まで送られた早川君は夕方千葉市小仲台の白鳥省吾先生宅へ安着。広瀬充氏を交え白鳥省吾先生御一家と夜遅くまで酒をくみ歓談、同市花園町の市原三郎氏(花園詩人主宰)を呼ぼうということになったが、病気の旨を早川君が伝えたのでとりやめになったそうだ。拙宅へ電話が掛かってきたのは夜十一時すぎで白鳥先生も風邪がよくなられたとお元気な声。広瀬氏は『あす午前十一時浅草橋駅まで来てくれ』という。早川君歓待されていいご機嫌らしい声。寝についたのは深更二時頃だったとか。翌日は記念撮影やら、白鳥先生に色紙などを書いて貰うやらで、家族扱いされた早川君、離京を前に最後の感激に浸った由。
広瀬充氏と歓談 三日午前十一時半(遅刻常習犯とて申訳ない)国電浅草橋駅へゆくと、白鳥先生宅から帰京の早川君と出勤途上の広瀬充氏が待ちくたびれた様子で私の顔をみて「これで安心した」とにっこり。広瀬氏の自動車で何とかという料亭へつく。階上階下大入満員だが広瀬氏が予約をしておいたというので二階の一室があけてあった。早速フグ料理にフグのヒレ酒、ビールが出されたが、早川君は「フグは十五年ぶりだ」という。三人の間に佐々木緑亭、鹿山映二郎、白木楓葉、久保田宵二、片平庸人等々早世した詩友の話が出て互に感慨尽きずである。そこへ昼休みの時間をさいて綱島嘉之助氏がかけつけて来たが、歯を抜いたばかりだそうで、いかにも痛そうだ。広瀬氏へ会社から盛んに電話がかかる。昼酒とて酔いが廻って来た。天下一品の雑炊に舌鼓うって午後三時に広瀬氏に別れる。早川君とお手手つないでぶらぶら歩いて駅へ。同夜、早川君から一別?以来の楽しかつた話を聞き、翌四日はゆっくり休養してもらう。
早川君離京 早川君、里心がついたとみえ、どうしても帰るという。尤も二・三月号を編集するつもりで原稿をカバンに入れて上京したというのだが、あちこちへ引っ張りダコで編集どころでなく、早く帰って割付けして印刷へ廻さねば遅れる―という。目が見えれば東京のあちこち見物にゆっくり廻ってもらえたのだがそれもならず、残念だが仕方ない。二月五日午後零時半、新宿駅発の中央線糸魚川行き急行(信州松本―大町経由)に乗車するのを見送る。藤森ゆきん等から、『早川さんはいつ帰られるか、見送りたい』と問い合わせがあったが、何しろ日程はその日の風次第式で不明なので知らせようもなかった次第。早川君はお弟子さんに当る歌人住江貞信さんの住む信州塩尻市の養福院へ直行、そこで清談、二泊。糸井川へ出て十五日ぶりで無事帰宅したわけ。帰ってから大変だったようだ。書信など山の如しだし、二・三月号編集やらで転手古舞いしたそうだ。

★二・三月号以下の遅刊は私が悪いので申訳ない。何しろ同号にのせる二つの記念撮影の説明を書こうとしたが、初対面の人もいるし、誰彼に教示を仰いだものの中々判らない。結局、顔を一番よく知っているのは私ということに辿りついたが、二、三人はっきりせぬので一々確かめるのに日数がかかった。そのため二度も編集のやり直しをせざるを得なかった早川君や同人各位に迷惑をかけた次第でこの際お詫びする。また早川君のため何かと御厚情を寄せて下さった各位に深謝申し上げる。なお、二ヵ月あまり経っていて記憶が薄れているので非礼の点があったら御海容を願いたい。
(四月四日夜)

掲載誌:『日本詩』北日本文苑改題 第23巻・復刊57号 通巻157号 1956 9月号