随筆

「同窓であることの有難さ」

 卒業してから四十数年、母校を訪ねたのは二回位しかない。第一回は昭和の初めの頃、クラス会(毎年八月十九日の定例日に魚津、滑川等で廻り持ちに開き、年一回会報「一枝十花」を出している)創立の時で、習字室に集まったが、大半はまだ大学生、私は北陸タイムスのかけ出し記者だった。第二回目は戦後間もない頃、新制高校として、何かの祝典に社の車でかけつけて顔を出した時だったが、女性が多いし、知った顔が二、三しか見えず、違和感を覚え、忙しいし約三十分で辞去した。その後、時たまバスで前を、汽車で後を眺めて通りながら、腕白時代を偲ぶ程度で、思いながら母校訪問の機に恵まれず、残念である。
 クラス会にしても東京ぐらし約十年のため出席できずにいるが、在京の級友約十人が、時たま級友上京の折歓迎懇親会を開いて若返ることにしている。面白いのは、同じ東京にいながら卆業以来初対面という場面である。紅顔豊頬の美少年が忽然と白髪か禿頭の痩せた皺面に一変して出会うのだから『ハテ誰だったけ』となるのも無理はない。こんな場合姓よりも腕白時代の仇名で名乗った方が手っ取り早く『やァ、××か』となり、握手々々となる。そして飲み、酔いながら恩師・級友のことを語るのだが、多くは故人とその遺族の安否についてだ。級友ならではの愛情が虹のように噴きあがり、生きていることの有難さを噛みしめるのである。
 戦前、富山で同窓会が開かれていたが、卒業回数順に並ぶので先輩後輩がすぐ判った。最上席は松井捨八郎医博で、最末席は大志摩良幸医師ら、私の上隣は金岡又左衛門薬博らで、私の席は床の間近くにあった。多数が私の下に並んでいるのを眺め『俺もそんな年になったのか』と憮然とした。戦後、復活するように誰彼に云ったが、世話する人がいなくなって休止のままのようである。
 東京では「魚中ふるさと会」が時々開かれており、第一回卒業の赤松祐之老をはじめ多数で賑わい、校歌合唱で別れるが、校歌は中川秀秋氏ら二十回卒業生以下しか知らず、十九回生以上は『いつできたかネ』と、口をもぐもぐさせているだけ。音頭、指揮をとるのは富樫長英前内外タイムス重役、流石秀才だけあって全部の歌詞を覚えているのにいつも感嘆している。この同窓会は三十回生までとなっているとかで、三十一~五十回の在京者は別の東京魚津会を作ろうか、と不満を私に洩らしている。五十回までとなると大変な人数になり、世話する人の苦労も大変だろうから『それもいいネ』と答えている。それはいいが、先輩にも後輩にも偉材が多いので会合に出る度に、巨峰と巨峰に挟まれた谷底の小石のように小さくなっている。先輩が日本一ともいわれる“電気の神様”等(川原田政太郎、宇田新太郎、盛永俊太郎の“三太郎”博士ら)としてえらくなっておられるのは別として、後輩諸君が私よりも“雲表高き”ところに聳えているのを眺めていると、自分のことのように嬉しく、同窓であることの誇りを痛感する。また東京在住富山県人約五十万人で組織している東京富山県人連合会の会合でも時々先輩と後輩と久闊を叙し、歓を共にして翌日のエネルギー源にし、同窓の有難さを味わうのを楽しみにしている。
 東京ぐらしにも漸く馴れたが、富山時代よりも忙殺されて身体が幾つあっても足らない明け暮れのため、どこへも疎音にしている。目下、文筆稼業のほか、世界的視野に立って同志を語らい、思想・政治を超えた日ソ文化協会創立、真の世界平和・人類共楽をめざす新宗教団体“天命会”の組織づくり、日本詩壇の再編成、日韓詩壇交流等の提唱、世界にない毒舌新聞創刊準備などに夢中であり“一匹狼”の仇名に甘んじている。
(魚中21回・著述業)