十数年前の初夏、富山県経済視察団を組織し、約一週間北海道を周遊したことがあるが、地図ではそんなに大きく見えないのに予想外に広大なのに驚いて「第二の満州だ。開発せずにいままで放っておいたのが儲けものだ。今後ふえる人口をここに移せばいい」といったものだ。あの雄大な原野、原始林、神秘を秘めた自然美、豊富な資源、素朴な人情などいまも眼前に蘇り、他日一人でゆっくり辺地を選んで歩いてみたいと思っている。
函館の五稜廓では桜の残花を見て、桜が時間を追って北上する自然律に感心したり、詩友高橋掬太郎君(母堂は富山県出身)がここで新聞記者をして、「酒は涙か溜息か」等を書いていたっけと感慨に浸って夕日に映える港町を坂をおりながら眺めた。
札幌で富山県人会館で昼食した序に、開戦当時内務省人事課長から富山県政建て直しに乗り込み、名知事として今も慕われている町村金五さん(長兄が可愛がって貰っていた)の事務所を訪ねたり、旭川では、県出身の成功者寿原翁(元代議士)の大邸宅で歓迎を受けたり、釧路への急行夜汽車が岩見沢で停車した時、社の通信員をはじめ県出身自衛隊員が待っているので、霧の歩廊へ飛びおり、口々に「先生、誰々の長男です」と叫んで蝟集するのに一々握手、発車寸前飛び乗ったりした。
釧路へ早朝着いて魚市場を一巡して、大漁ぶりに流石と思い、石川啄木を偲んだが、「さいはて」の感はなかった。
一々憶い出すと果てぬから端折るが、北海道は富山県同様に金使いが荒く、物価も全国平均より二割高だし、富山県人は北海道の人口の二割以上を占めている。北海道での富山県出身政治家は数多いが、篠田弘依現・寿原正一前各代議士がいるし、北陸銀行支店も北海道各地に明治以来散在し、各地の富山県人会の事務所を置いて県人の拠点となっている。大正時代、私の竹馬の友が一家をあげて北海道へ次々移住していった。中には仄かな初恋に似た想いを互いに抱いていた美少女もいたが、誰一人帰郷せずじまい。生きていればもういいお爺ちゃんお婆ちゃんだろう。前に、TV連続ドラマ「石狩平野」が放映された時、毎日見ながら幼馴染を偲んでいた。
阿寒湖のマリモ等々やアイヌ部落、定山渓や苫小牧などはさりながら、登別温泉の一級旅館(富山県人経営)で驚いたことが少なくなかった。第一に夏の夜だというのに火鉢を抱えねばならなかったこと、第二に湯滝等大小様々ある大浴場で男女混浴し、修学旅行の女学生が天真爛漫(最も男が少数で女が大浴場を占領)で股も隠さず小さい浴槽で一人首まで浸っていたら、数人の年増女(といっても水商売の者ではなく、主婦達)が入って来て、同様に前を隠さず、私の眼前に展開し、一人がパイパンを拝ませたこと(西洋式かタオルを乳や臍にあてていた)で第三に夜中の二時ごろ揺り起こす者がいたので目をあけたら浴衣姿の二十代の美人、枕探しかと思って跳ね起きて訊ねたら、「お伽」に呼ばれ、部屋が判らず、今更検番へ帰れぬから共寝させてということだった。これは謝絶して社の北海道支社長らの部屋にお引取りを願った。
どこだったか、忘れたが、某駅へおりたところ、同じ汽車で私の前に坐っていた若い農婦が米軍のジープに引き殺されていたのを目撃した。死体はうつ伏せになり、血がジープの下を流れており、愛児へのお土産だろう、セルロイドの玩具やお菓子が散乱していた。MPや警官に叱られて遠のいた群衆に交って見ていたら、殺人犯のアメ公は、MPにニヤニヤ笑って説明し、一匹の犬か猫が死んだ位にしか思っていないように平然としていた。これは戦後各地で米軍が演じた惨劇の続きだろう。だが、独立(名だけにしろ)した後の惨事で駅前の衆人環視の中だ。思わず唇を噛み拳を握りしめ「地元の新聞記者なら特ダネになるが……」と思いながら、敗戦の哀れさは別として憤怒の血の沸りを抑えることができなかった。促されてバスに乗ったが………。あの遺族はどうなったろう、と時々想っている。
大原始林の巨木を見ながら約二時間バスに揺られて走ったこと、ツンドラ地帯を土地改良すれば利用できるがなァと考えたこと、もっと北海道開発に政府が真剣にならねば駄目だと内心腹をたてたことなど、徳富蘆花の、「自然と人生」の標題めいた感懐に耽った。
各地の富山県人会の大歓迎宴では郷土民謡を歌う者が少なく(昔移住したきりなので忘れた故か)ソーラン節が殆んどだったのは淋しかった。それはともかく、千歳空港を夕方飛び立ち、日本海へ沈みゆく日を眺め、仙台等の瞬く燈を脚下に見たりして、羽田に着いたとき、やっと「内地」へ帰ったという安堵感にホッとしたが、自分ながら変な気がした。
掲載誌:『東日本の夜と酒』東北・北海道・関東・山静・信越 横浜地区 東亜の情酒まつり