随筆

「立山まいり」

東京立山会相談役 中山輝

 千二百余年前、大伴家持郷は伏木の国府で越中守として活躍中、有名な万葉中で数多く詠んだ名歌の中でも秀れているのは立山を神山として讃仰したものである。家持郷があれほど「神がらならし」とあがめた立山へはついに登ることが出来ず、さぞ残念だったことであろう。それ以来、立山は俗人が六根清浄でなければ入山を許さず、女人禁制であったことは最近まで連綿と続いていたこと、いうまでもない。
 昔、私が富山日報社会部長をしていたころ金山従革氏は私を可愛がりながら「なぜ立山にタテヤマとカナをつけとるのか。大伴家持がタチヤマとよんだように、タチヤマとカナをつけるようにしたまえ」と羽織、袴に時計をいくつも持参し、正午になると時計をみくらべてお握りをパクついて叱りつけた。私も「それもそうだ」と思いながら「今上陛下がが摂政宮で来られて呉羽山から仰いで“たてやまの空にそびゆる雄々しさにならへとそおもふ御代の姿も”と歌われ“タチヤマ”とよんでおられない。第一、タチヤマということになると梅ヶ谷と並ぶ名力士太刀山と間違われる」と文句をいったら渋い顔をしておられたものである。さて「立山下の後生願わず」といわれるのが嫌で、昭和十年ごろ、部下の深山清一君(有名な従軍記者となり、戦後メチールアルコールで急死)引卒の下に第一回の立山まいりをした。なんでも地下足袋を富山で買ったのはいいが、片チンバのため、左足に小さく、親指がはれあがり、泣きの涙で三泊四日間ひどい目にあった。第一日は称名滝下から大日岳へと登り、夕霧かかって薄暗くなった大日小屋に一泊。翌早朝雇ったガイドを案内に朝日をあびながら尾根伝いに剣御前小屋に辿りついた。小屋主は「今日は剣岳が風が強く曇ってくるので危険だからやめとかれマ」といったが、正午でもあり、お握りをたべて十余人出発した。剣岳の下で仰いだら思わず身ぶるいした。とてもけわしくて登れそうもなく恐ろしくなった。二、三人が「このまま下で待っとる」というので私も「おれもそうする」といったら、深山君が「いやしくも富山日報の社会部長がそんなことではどうする、恥や」と叱った。仕方なく登ったが、岩にかすかに残っているのはワラジ跡だ。それが冷たい霧でみえなくなった場合、ガイドが迷って早月川方の方へ廻り、「まちごうた。反対や。黒部谷の方へ戻るんや」というので一歩一歩逆戻りやっと頂上にたどりついたが、二坪位がスリバチを逆さにした極点にあるだけで、ミカン箱大の小さな祠が石に埋められながら今にも吹っ飛ばそうだ。中に何があるか、とても拝むわけにも参らない。万歳の音頭をとったが、立っていると黒部谷へ吹っ飛ばされるので中腰になって両手をあげたものである。さアいよいよ下山だ。登りはよいよい、下りはこわいーで一同は岩に腹をくっつけて、そろりそろりと足をおろしたり、カニの腹這いになり、岩と岩をつなぐ鉄の鎖をサーカスの軽業師のように綱渡りした。しかし、私は「どうせ足をふみはずして頭を割って死ぬなら、どんな風にしてどこへ落ちていくか、みてやろう」と岩を背にして深い断崖絶壁の下を見おろしておりた。夕方無事に小屋へ着いたらみんな喜んでくれた。
 次は朝早くから雄山まいりだ。登ったりおりたりしてやっと頂上へつき、神酒をいただいたことなど忘れられない。それから一ノ越をこえ、佐々成政のザラ峠から原始林を笠、ゴザ、ゲートル、地下足袋で縫って立山温泉への途中、ぬれ鼠となった。私は左足が痛むので殿軍をつとめ、今度は陣頭指揮の深山君を「こらア、深山の神主メ、急がんか」と叱りつけた。深山君は御岳教の二代目教祖だったからでもある。どうやら立山温泉に着いて硫黄くさい温泉にひたり、疲れた身体をやすめて人心地がついたものだ。この立山温泉は、当時北陸日々新聞経営の加藤金次郎氏の所有ということを温泉に入りながら深山君に聞かされ「勿体ない。引湯して下の谷で温泉街をつくったらいいのになア」といったものである。あの立山温泉はどうなったか、知る由もない。
 私ら子供のころ、立山まいりは生命がけとされ、男は十五歳になると元服がわりに霊拝せぬと一人前にならぬ、とされていた。村の若い衆は白装束に身を固め、笠、ゴザ、ワラジ姿で氏神さまにおまいりし、水盃をして出発、無事おまいりをして帰ってくると、まっすぐ氏神様へ赤い幟や六尺の木の杖に雄山神社の焼印のついたのを押したてて来て、太鼓をたたいて奉告していた。若い衆たちは私らに地獄や浄土やサイの河原などを語ってくれ絵サマ(五色の木版画)をみせ「やがてデカなったらお詣りせいや。でないと折角もらったチンチンが恥づかしがるベ」といった。私は長兄中山(今度秋の叙勲で昔警視庁の警部時代もらった勲六等から二級とんで勲四等瑞宝章を受ける)の腰に抱きついて立山詣りを頼んだら「お前がやがて十五歳になったら連れて行ってやる」と云った。それを楽しみにしているうち、長姉や二人の兄が上京してしまい、ついにおじゃんになった。
 二度目の立山登拝は、その長兄が帰省し私の茅居に泊っていた昭和二十九年八月十九日だった。台風の余波で朝来雨だが、お握りなど用意し、案内役の利田与四松君(当時北日本新聞写真部長、現在名古屋で立山電子工業社長になっている)を待っていたら、午後来て「立山は荒れているから駄目や、やめにしよう」と云った。今になって何をいうか、行けるところまで行こうーと叱ったら、「じゃ、用意してくる」と戻って行った。やがて来たので雨合羽を着て出発した。夜になって美女平駅へ着いたが豪雨だ。今でこそ美女平ホテルがあって泊ることが出来るが、当時それこそ無人駅に等しかった。利田君は電話をかりて営林署駐在所へ電話した。すると署員がジープで迎に来て、追分小屋まで送り届けてくれた。小屋は超満員。小部屋に私と長兄と小娘二人がどうにか泊ることとなり、やっと一安心。翌朝は快晴だ。あちこちに薄氷が張っている。外で洗顔していたら、多分、小屋主の部屋で寝たらしい利田君が出て来て「来てよかった」といい、長兄は、「おれは天気だからネ」と答えて大笑い。さて歩き始めたが、中々大変だ。途中で何度も休み、お握りをたべ、魔法ビンのお湯にウイスキーを入れてのんだりしたが、弥陀ヶ原、天狗平等のすばらしさをゆっくり眺めているわけにもいかないので大変。毎年何回も登っている利田君は一々説明したら、カメラに私らをおさめたり悠々としているが、私ら兄弟の足はいうことをきかない。一ノ越の雪渓を渡るころ、ガスがかかって来た。するとバタバタと羽ばたきの音がして目の前を数羽の雷鳥が横切っていった。利田君は「こんな間近に雷鳥の飛ぶのを初めてみた」といい「撮影すればよかった」とこぼした。一ノ越小屋に着いたが、寒くてやりきれぬ。冷酒でぬくまることにしたら、利田君は「合力たちに二、三升やってくたはれ」という。若干の金を渡し「適当にやれ」といったらどこかへ消えた。長兄と二人のんだが、奧の炬燵で気持よさそうに寝ている。一升ビンを並べ湯呑茶碗でグイのみしていた合力たちは「利田ハン起きられんか」と起こした。そして「局長ハンけ、御馳走さん」と礼をいっていた。
 ガスが大分薄れたので三人登り始めた。私は大分酔ったので、九州宮崎県で習って来たばかりの稗搗節を歌いながらビリになって一歩一歩登ったが、山岳写真家中野峻陽氏の言葉「立山登りの秘訣は登り降りとも平地を歩くのと同じ歩調にすることだ」を実行した訳である。一ノ越から合力一人が登って来たので利田君は「中山ハンと三人泊るから社務所へいっといて」とことづけた。
 頂上へたどり着き、私と長兄は千円宛宮司へ渡し神社前に額づき祝詞をあげて貰った。社務所前へ戻って黒部峡谷の方をみていた長兄が「虹だ」と叫んだ。利田君は「御来迎だ」と叫ぶ。社務所から牧野平五郎氏らが出て来て「いや、今まで何十ぺん登ったが、夕方の御来迎は初めただ」と感嘆した。なるほど二重になった虹が私の影を包んでいて、両手をふるとそのようにふる。それが暮れゆく黒部峡谷の方だから、朝日の場合と逆だ。
 社務所に留めてもらったが、布団を何枚も着せてもらっても寒くて中々眠れない。台風一過の夜とて空気は澄み、何でも軽井沢あたりの街の灯や自動車の往来の光がよくみえたものである。翌日ずっと富士山がよくみえたので富士山を背景にした兄弟の写真を利田君に何枚もとってもらい、北日本新聞社の重役達にみせたら「ほう、富士山がよく写ってる」と感心してくれた。地獄谷温泉で一浴し、休んでいたら例の小娘二人とまた会った。佐渡のバスガールで「あこがれの立山へ明日登るのが楽しみ」と喜んでいた。
 三度目の立山まいりは、今年の八月十一日未明だが、登り降りともビリで、森井正成会長や安田省三副会長らが大変心配して下さった。あのミクリが池荘を午前二時半出発してからの月明は何ともいえないし、頂上にたどりついたのは五時、日の出を拝んだのは五分後だが、感激した。翌十二日立山町役場の監査委員室で十数年ぶりに石田滋治立山町議(元北日本新聞常任監査役で現在富山の冠婚葬祭会社の社長)にあって「何度立山登りしたかネ」ときいたら、「まだですチャ」と「立山下の後生願わず」ぶりを発揮し「来年登りますチャ」と苦笑していた。この十二日以後立山は雨だったようで、私は「精進のいい人たちのおかげだ」と泌々思ったものである。(十月三十一日)

掲載誌:『東京立山会報』