随筆

「〔恋を語る〕朝に失恋をし夕べに失恋を」

 私は昔から失恋奨励論者である。失恋から名作が続出するこというまでもない。間貫一が失恋したから「金色夜叉」劇がもてるのだし、久米正雄が失恋したから「破船」以来文壇の脚光をあびた。文覚上人等々みな然りである。得恋するとユーモア小説位しか書けなくなる。それでできるだけ失恋を志して来たのだが、不幸にして得恋の連続のため 名作どころか、迷作も書けず、美男連中から嫉妬されてサッパリだ。というのは彼らの片思いの美女が次々わがものとなり彼らを自殺寸前に追い込んだからである、――と妄想している。なぜ私が得恋するのかと反省してみたところ、富山の美妓連が昔いうていたのによれば『ナーさんは骨皮筋右ヱ門で、どことなく水原監督や近藤日出造に似ているけれど、とても二枚目にはなれん気の毒な人や。女になど惚れられる人でない。せめて私ら女が惚れてあげにゃ……』ということであった。これが羽田松雄とか三井良尚、綱島嘉之助等の二枚目(つい期せずしてノンベエでない石部金吉になってしまった)だと、世の美女は『高嶺の花、とても私ら傍へも寄れないワ』と敬遠すること長谷川一夫並になるので、奥様一人しか女を知らぬという哀れな一生を送ることになるのだが、幸運にも醜男に生まれたので―という結論に達した。甚だ申訳ない。
 そこで、私は外出すると美女に出あうことを願い、うまく電車の中などで出会うと、内心初恋をし、無言のまま見送って失恋することにしているのである。まことに初恋は何百回してもいいものだが、心の中で失恋すると切なくなって来て、ヤケ酒をのんでは、『失恋の謡』をかいて、ひとり涙するのである。こんなことを口に出していうとキ印にされるし、女房に知れると大変だから内緒に願いたい。
 それはさておき、童貞を破られるまでは、失恋?の連続であった。小学校時代、同級生の首席の美少女が隣の席におり、互にそこはかとなく恋心を通わせていた。誰が学校の白壁に墨で書いたのか知らぬが傘の下に私の名と彼女の名が書いてあり、校長以下二人の顔をジロジロ眺めるので弱った。私は“糠三合もっておれば婿にならぬ”主義なので大地主の婿になることを嫌い、彼女の恋心?に知らぬ顔をした。
 昨年五年ぶりで帰省したら、この美少女は白髪のバアチャンながら昔の美しさを漂わせ、私に一番親切にしてくれた。そのほか、中学時代に年下のお下げ髪の美しい女学生たちにも恋心をよせられたが、道であっても彼女たちが真っ赤になって、万感の思いをこめた眼で目礼してゆくばかり。ニキビ面も忘れて私も胸に早や鐘をうたせたものだが、これはと思うのは、みな大地主の婿とり娘ばかり。その一人の婿になったのに中学時代の同級生がおり、村の農協組合長などをしていて、今年も色々かいた年賀状をよこした。
 さて、これから本題だ。早大予科(第二高等学院=当時第一高等学院に火野葦平君がいたことをあとで知った)時代に懸賞金稼ぎをし、回覧雑誌を作ったりしていたが、その中でただ一人、私より詩が巧く、字も上手だった女性がいた。文通も毎日のようにし、写真も交換した。彼女からバラの花浮き出しの女の封筒に香水が注いであり、裏の差出人の名は××生と書いてあった。いくら男らしく××生と書いても女文字だから、私が寄食していた叔母に少しとがめられた。私はできるだけ万葉仮名で中山輝子と書き○○××子様みもとへ―と書いた。そのうち胸を病んで帰郷し母の膝下で療養する破目に陥った。彼女からせっせと毎日のように手紙が来たが、やがて『父にあなたの手紙をみつけられて大変な怒りをかい近く遮二無二見合いをさせられるが、貴方が全快して上京され、早大を卆業されるまで誰とも結婚せず待っている』旨の長い手紙が来た。私は『今後手紙をよこさぬように。よこしても返事は出さない。いい結婚をして御両親を安心させるように』という手紙を出した。その後二、三通手紙が来たが、返事は出さなかった。彼女はもちろん年下だが東京西多摩郡の山奥の豪農の一人娘だった。場合によれば禁を破って婿入りしてもいいと思っていたのだが、彼女のためを思い(内心、私よりすぐれた詩をかくので劣等感を抱いていたためもある)強い“求婚の娘心”を拒否したのであった。これが本当の初恋であったといっていいだろう。その時、沢山失恋の小曲などを書いた。本当いうと彼女に失恋させたのだが、それでは詩にならず、また失恋というものを味わうつもりで書いた。その中の一、二を挙げると

〈野ばら〉
名もない丘で 人知れず
のばらが白く 咲きました

名もない丘で 人知れず
のばらが白く ちりました

名もない丘で 人知れず
泣いて別れた 昔です

〈雲〉
今日消ぬべき 夢ながら
丘に湧けるは なつかしや

今日も叛きし ひとの瞳(め)を
探せば空に 雲の湧く

〈雨〉
白きベッドの ひとり寝は
窓打つ雨も うらがなし
君のたよりも たえはてて
はたちの年も すぎゆくか

〈以下忘れました〉
などで、すべて浅草で買った、大正琴を鳴らしながら自分で作曲し、音沙汰なくなった彼女を偲んだものだ。はたちはもちろん数え年で関東大震の翌年だ。今でも時々こっそり彼女の家のほとりへ行って、生きているかどうかを尋ね、もし死んでいれば、墓まいりをし、生きておれば互に昔話に興じてみたいものだと念じているが、ただ思うだけだ。
 今年も大いにこっそりと胸の中で初恋をし、たちまち失恋することを楽しみそれを原動力にしてヤケ酒をのみ「失恋のうた」を書きたいものだ。〈43・1・4夕〉

掲載誌:『時雨』130号