随筆

「曙光君 眠りながら大往生」

 早川嘉一君から「山岸曙光氏、午後一時脳溢血のため死す」との電報が来たのは私も家内も不在中の六日夜七時頃だったろうと思います。(何しろ、電報局から電話でいうので、小学校六年生の子供が聞いたのでは時間が明確でない不便さがあります)
 不意うちなのでショックを受け、暫し呆然として信ぜられぬ位でしたが、脳溢血とあるからは信ずるほかなく、すぐ貴兄へお知らせしたいと思いましたが電話が判らぬので都築益世氏へ電話しました。都築氏のその後の様子も気にしていたのですが、先ず先ずとのことで一安心すると共に、互いに山岸君の急逝を嘆きました。――
 さて、友人代表のつもりで弔辞を書きましたが、涙が流れて仕方ありませんでした。飛んで帰って、通夜をしたり葬式に出たり、後始末について相談に乗ったりしたかったのですが、急ぎの仕事があって身動きとれず残念でした。それというのも今の奥さんを私が世話をし戦争中の結婚式ながら私が司会をした関係もあるからです。
 七日午後になって、五日夜十二時半書き出した、早川君からの長文の手紙が来て(六日朝投函したらしい)大分様子がわかりましたのでほかならぬ貴兄ゆえ、早川君の手紙を写してお目にかけます。

 九月五日夜十二時半記。今日午后二時過ぎ、〔二字欠〕寺津幸司君(註=曙光君の弟さんで寺津家へ養子に行っており小学校の校長さん、昔いい民謡や童謡を書いており、山岸君に「弟の方がうまい愚兄賢弟か」―などとからかい、山岸君を苦笑させていたものです)からの電話で、「山岸の兄が今朝一時半脳溢血で倒れ、医師は時間の問題だ」と聞き、早速藤田直友、坂田嘉英君ら(註=小誌「日本詩」の同人)へ電話連絡して午后三時二十五分のバスで豐田(豊丘町)へ行く。
山岸さん、深い息でグハァ/\うなるのみ。目は開いたまま耳も聞こえず、全身時たまケイレン、身体火のように熱く、タオルで冷やしていられた。
寺津君と今後の連絡と両新聞社(註=富山県下の北日本新聞と富山新聞です)への記事(恥歴詩歴など)作り午后五時二十分のバスで一応帰宅する。あの息の深さでは心臓が強いらしく、ヒョットすると丸一日や二日このまま持つかもしれないとも思われる。実は四日午后二時半、山岸氏、拙宅へ来訪あり、二上俚謡会(註=これは大正時代、富山日報の俚謡欄で山岸君が選者となって万朝報の向うを張っていた当時の投稿者=もう六十才以上の人人ですが=の会です)五十年になるので、何か催しをしたいので笠置白粉花氏の住所番地をききたいということであった。そこへ坂田君(「日本詩」の校正者)が八月号の初校持参(全部)し、雨降りとなり、そのままよもやま話で、五時半まで拙宅にいたが、帰途、坂田君の傘に入って上り立町のバス停まで同伴、山岸氏帽子忘れてゆく。今思うと少し変ったことは、ボク宛の手紙が返送して来たと差出されたので、見れば、柳町早川清一となっている。「なぜ嘉一を清一に間違えた」というと「イヤ、君は清一だねカ」と笑っていられたので、そのまま「そうか」/\で笑ったものでした。坂田君も北新町停留所(元上り立町)まで同伴し、「ボクは市電で西町へ行く」と別れたのに市電がくると坂田君が乗る電車に乗られた。(註=これは山岸君は反対の電車に乗るべきもの)坂田君が「どうしたがケ」ときくと「いや、これ西町行きケ」と笑っておられ、西町で坂田君下車するのにダマッテいられるので、「ここ西町だ」と云ったら「そうケ、なら」と下車されたのでそのまま別れた由。
 昨日は午后七時に帰宅し、いつもと変らず、十一時頃までテレビを見て床につかれたのに、夜半一時半にコンスイ状態になられた由です。今夜今まで電話がかかるかと待ったが、かからずでした。ハッキリすれば、打電することにしますが、ともあれ一報します。(中略)
 八月号初校で中山さんの巻頭四枚のうち二頁と三頁があべこべに(中畧)それに人の名前で中山さんの字が読めず、幸い山岸さんがいられて助かった(後畧)
 大体早川君からの手紙はこんな状態で、山岸君が倒れたのも、息を引きとったのも自宅だったのは不幸中の幸と申すべく、家族、親類、友人も臨終に間にあえたことでしょう。末の娘さんもまだ中学生かと思いますし、まだ死んで貰っては困るのですが、致し方もありません。御本人は眠りながら意識を失ったままの大往生だからいいかも知れませんがね。私としても大正十五年以来、四十一年間の、切っても切れぬ親友を急に失ってショックです。東京などでの民謡や歌謡を書いている古い友人も多い筈ですが、親疎の程度がよく判らぬので――知らせてかえって相手の人に御迷惑をかけてはまずいと思って遠慮しました。――〔九月九日夕〕

二信
 今ほどはお電話有り難う存じました。何やかや、と忙しくあちこちへハガキ一枚書く暇もなく申訳けありません。
 山岸君の葬式に行かなかったため、山岸君がまだ生きているような気がしており、(妙なことですが、火葬場までいって骨と拾うと嫌でも死んだと思わざるを得ませんが葬式にゆけないと、眼でみないだけにいつまでも本人が生きてるような気になることができます)時々、「もっといいもの 見せてくれんか」と呟いております。
 私は山岸君の作品については面と向かって、いいものはいいとほめ、拙いものはダメだと卆直に筆舌に出したのですが、彼は私のものに対しては、いいとも悪いとも一言もいわなかったです。これが私の不満でしたけれども。(中畧)よく弟さん(寺津幸治君)兄弟の前で“愚兄賢弟だ”といったものでしたが。
 しかし、人間性は山岸君は、やはり兄でした。
幸ちゃんは技巧の冴えは兄以上でしたが、本物はやはり兄の方が上でした。もう再び山岸兄のような民謡詩人がこの世に出ないと思うと悲しいです。
〔十月十五日夕〕

掲載誌:『時雨』118号