随筆

「民謡よどこへ行く 創作民謡と若い人」

 詩文学の中で、若い人が関心を持っているか、作詩するのは詩、歌謡、童謡ぐらいで、俳句、短歌、創作民謡、川柳等は老壮年に多い傾向にある。なぜか。問題点は多いが、現在の国語教育(当用漢字、かなづかい等)などの影響も見逃せまい。一々詳述する煩を避けるが、一には表現、形式の難易によるからで、情緒(どちらかといえば中途半端な主観的なもの)などという面倒くさいものよりも、×○式、二者択一的な、科学、合理等の目的的な生き方を考えがちな若い人にとっては、自由な表現形式の詩、定型といっても聴覚本位的な歌謡、童謡(テレビ、ラジオ等の影響が多い)の方の真似(ご存じのように「学ぶ」は「まねぶ」に発する)が手っ取り早く金になるからでもあろう。俳句、短歌、創作民謡、川柳等は、定型の短詩の中に「自然と人生」を圧縮、昇華させる聖典経典のようなもので、面倒くさいし、一文にもならぬし、隠居の趣味じみたものにみえ、早く金への短距離を目ざす方が「詩を作るよりも田を作れ」にピッタリだ。と思うからでもあろう…。
 ところで、詩文学の中で比較的盛んであるのは詩、歌謡、俳句、短歌で、不振なのは童謡(歌う、読む詩よりも見る漫画に圧倒されレコードも多く売れない。童謡レコードを幼児は買えないし、買うのは親だが、それほど必要を感じないし、……)と川柳、衰退しつつあるのは創作民謡である。
 民謡というと一般の人は伝承民謡(佐渡おけさ等の)しか考えない。またこれらの伝承民謡は日本民謡協会(昨春まで故高橋掬太郎君が理事長で、一昨秋時雨音羽氏は白鳥省吾氏らに次ぐ民謡文章、私は渡辺波光氏に次いで民謡詩人としてNo.2の民謡功労章を受けたものだが)等によって年々盛んになり、各地で大変な人気を呼び、詩吟と同様に師匠は笑いがとまらない現状だ。創作民謡はこれに反比例して、書く人は老壮年、民謡集の出版も微々たるものであり、売れそうもない。というのは(今更民謡論をいうつもりはないが)名称が歌謡に代わった関係もあって、若い人は伝承民謡(本来は俚謡)と思い込み、「古い」「マンネリ」「義理人情の浪曲調」と軽視して歌謡(本来は俗謡)に熱中?作詞作曲熱もあげている。もっとも今の歌謡の多くは外来のフォークソング、シャンソン、ジャズ(いってみれば民謡)などのテンポの早い(日本では盆踊り等に多い)メロデーを採り入れているので、それらに新しさを感じ、詩よりも曲(無意味なナンセンス時代の反映)に魅力を感じ、場合によれば一発(「皈って来た酔っ払い」のように)で巨額の印税が稼げるという面があるからでもあろう。殊にレコード、テレビ、ラジオ、カーステレオ等にとって「若い人は王様」の時代ゆえ無理からぬようである。
 すべての「歌う詩」「歌える詩」は日本で記紀万葉、外国ではギリシヤの古典詩などは勿論、文字(視覚)がなかった以前か普及していなかった時代から聴覚を主体としたもの(内外のいわゆる吟遊、即興詩人が自ら作詩作曲し歌っていたこと、ノンキ節の石田石松等に及んでいる)で、そこに文学の一切が含まれていた。視覚(文字)を媒体とするようになってから分派して今日に及び、多くの古典的なものはメロデーが消え、一部が文献的に文字(意味)として残っていて、それらが梁塵抄(斉藤茂吉、北原白秋らはこれによって詩歌の開眼をしたというこというまでもない)等のように今でも感動を与えている。
 ところで釈迦に説法だが、歌謡童謡(多くは、七・五調)を除く詩文学は引音の短歌(穂曽谷秀雄君らの「自由と学術」の現代短歌のような破調の二行詩などもあるが)や26音の都々逸(俚謡)から脱皮した短謡(高橋掬太郎)、民謡短唱(山岸曙光)定形詩(松本帆平)や17音の俳句(破調の碧梧桐、井泉水等の流派もあるが)川柳等々(読む詩)となり若い人にとって面倒くさくなったといえるだろう。
 民謡と歌謡は本来同義のものだが、区別するので若い人は惑う。明治中期まで民謡という名称、(故藤沢衛彦、藤森秀夫両氏は私に「命名者は私だ」といわれたが、故藤田健次氏は「高野辰之氏だ」といっていた。はなく、歌謡で通っていた。それが大正、昭和初期になってから、白秋、雨情、八十、省吾等々によって民謡全盛となったわけだが、それでもレコード会社は創作民謡に対して流行歌と銘打っていた。
私の「山の唄」が昭和六年コロンビヤから(古関祐而曲藤田一郎唄)レコード吹込み発売された時流行歌としてあったのでウンザリしたものだ。(二十円送ってきたので悪い気持はしなかったが)今の歌謡で主流の形をしているのは流行歌(演歌、艶歌などとも言われる)であることご存じの通りである。俗にいう「歌は世につれ―」である。これが創作民謡と本質的に違うのである。一は永遠のもの、一は水泡のような一時的なものなのである(中畧)
 詩は「個性の普遍化」で民謡は「普遍性の個性化」だが、それだけに創作民謡はいわゆる「無告の民」の代弁として万人向きの価値と意義があるわけだ。―昔から言ってるように「民謡は民族、民衆の謡で在野精神、反骨精神、批判精神を底流とする」ものだから、予言、警世、祈り、願い、慰め励まし等を事物(従って時代性、社会性、物語性等を含む)に託して端的、直截に表現する「歌う詩、歌える詩」だが、いわゆる歌謡に圧倒されて俳句、短歌、川柳等同様に「読む詩」となっている。いわゆる現代詩にも難易両様、新旧両態があるが、誰でも自由に書けるところに安易、利便がある。―創作民謡も70年代の若い人によって大いにつくられてほしい。あえて苦難の荊の道を拓かん意欲に燃える若人(それが若人の特権だ)は、現在を踏まえた上でこれからの「新しい」民衆のうたにとりくんでほしい。

掲載誌:『時雨』162号