随筆

「高橋掬太郎兄のこと」

追悼の句
 新聞に君の遺影や菜種梅雨
 咲き満ちて浄土に還る花吹雪

 昨年十月二十三日早川嘉一君が急死してから、親しくし頼りにしていた詩人たちが相次いで、目に見えぬ“大いなるもの”に、ふっと吹き消された蝋燭の炎のように消え、胸底を寒風が吹き荒れるような寂しく切なく哀しく心細い思いの明け暮れである。早川君に次いで十二月二日夜伊福部小夜子さん(私と義兄弟の契をした故伊福部隆彦氏の未亡人)が自宅で入浴中に家族も知らぬうちに急死、正月九日笠井雅春君(日本歌謡芸術協会の「日本歌謡」編集担当の古谷玲児、藤田日出雄、花沢豊諸君が相次いで死んだあと担当)は稲穂雅己君の喉頭癌(四月十七日付の西条八十氏の手紙では、やはり心配していたように喉頭癌の再発だった。しかし当分大丈夫だろう)を心配して「輝さんよ、オレよりも稲穂は童謡詩人だけあって、子供のように心細がり、古谷みたいに辞世の短歌を書いている。オレのいうことをきかんから、オトット(父)の輝さんが稲穂を叱りつけてやってくれ」などといいながら、食道癌から肺癌になり、島田信義医博や綱島嘉之助島田総合病院事務長らの最善の努力も及ばず昇天した。(もっともその先に恩田幸夫君を今日あらしめた内助の功多い夫人が同じ島田総合病院で永眠し、恩田君が即夜電話してくれて私を泣かせたが……)
 その他、一々書くと限りもないが(アポロ13号でないが)ショック続きだ。いい人に限って春にそむいて散っていく。お互に先に昇天した人々の代わりに“死”という未知と対決するまで、先に“苦界”を去った“いい奴”の残した分を引き受けて、重荷を背負い(大嫌いな徳川家康の言だそうだが)西条八十氏の“いっちく、たっちく太衛門”?のようにし、山本和夫、坂口淳、都築益世諸君とあう度にいっているように“お互いにそう早く死ぬわけにはいかない。あとに残された者は先に死んだ連中の分まで引受けてしなけりゃならん。そのためには、できるだけ“憎まれ子、世に憚かる”になろう―と、できるだけ“憎まれ口”をたたき“憎まれる者”になりたいと努力している。“可愛い子ちゃん”になるのは簡単だが、北原白秋の“憎いあん畜生”になるのは、大変、骨が折れる。よく“何のために詩を書くのか”と訊ねられるが、私は野口雨情の「かァらす、なぜなくの」の謡を引例して答えている。
 それはともかくとして、多くの親しい詩人(故早川嘉一君と布瀬富夫君と三羽ガラスの一人の広瀬氏春君は私と同じ胃潰瘍で二月手術、坂田嘉英君は胆嚢炎で三月手術等々数多く“才子多病”を実証している)が、無事に遅い春を迎えてくれる――と喜んでいた矢先高橋掬ちゃん(掬太郎兄への私の昔からの愛称だ。誰彼が私に“輝さん”“輝ちゃん”といってくれているように)が、全く不意うちに四月十日の新聞で急死を告げ、このショック続きにガックリして、「こら、掬ちゃんよ、なんで先に死んだのか」と、孤影、暗夜をゆく哀切しきりである。
 高橋兄は今さらいうまでもなく、例の「酒は涙か溜息か」以来、作詩(気にくわぬことは一般紙等が「作詞家」としていることであるが、考えてみれば「作詞」は「作詩」より骨が折れる。つまり新しい言葉を創造するという謂いであり、私ら“馬鹿正直”な、一文にもならぬ“詩”の一字にしがみついて自己満足している愚者に対するマスコミの警世語だ。高橋兄は多分“作詞”に対し憤りを感じていたに違いないが“死人に口なし”で、仕方あるまい)一筋に生きて来た。
 ここで、高橋兄の戸籍めいたことについて触れて置こう。
 高橋兄は昭和二十七年函館で七十八歳の天寿を全うした母堂ふでさん(富山県黒部市生地町出身、旧姓芦崎)と厳父菊治氏(岩手県出身、北海道根室で漁業を営み、大正九年五十才の若さで死去)の長男として、根室で生まれた。根室中学を中退して根室新聞記者になり、その後、函館日日新聞社社会部長兼学芸部長(当時の函館には片平庸人等々、石川啄木の後を次ぐすぐれた詩人が輩出していたものである)となった。これは昭和初期のことで故藤田健次氏の“民謡詩人”等で、私や故山岸曙光君や林柳波等々の人々が一段組みになっているのに高橋兄が投稿者扱いの三段組みになっていた(多分「酒は涙か」はこの三段組みになっていたようだが、往事茫として夢の如しで忘れた)ものだ。
 高橋兄が昭和五年(考えてみれば、私が北陸タイムスで源氏鶏太君らを育成し、小誌の「詩と民謡」を創刊した年)コロムビアに頼まれて函館小唄などを作詩したのが縁で、たまたま北海道巡遊中の“古賀政男”マンドリン隊?に新聞記者として仕方なく応待し、接待したものだ。当時の古賀氏は御存じの通りで、いい詩を求め、仕方なく“影を慕いて”など作詩作曲していたころである。
 高橋兄は親孝行、女房孝行、子や孫への孝行者で知られているが、いつまでも一介の新聞記者(当時は無冠の帝王気取りだったが、長男として責任重大で親兄弟を楽にさせてあげたいと、板子一枚、地獄の底の漁師生活の厳父の急死を考え苦慮していた)で終わる気持はなかった。といっても、一介の新聞記者だったが、後世に名を残している石川啄木の後輩として、函館時代、詩に親しみ努力していた。古賀氏からコロムビアの関係で「何かいい詩がほしい」と楽屋でいわれて見せたのが「酒は涙か」だった。これがヒットした。
 高橋兄は昭和八年上京して作詩生活に入ったのだが、私は同年ごろ民謡「高山しぐれて」(町田嘉章氏曲、勝太郎唄)でビクター特別賞を受け五百円と純金の犬印マーク等を貰ったし、昭和六年コロムビアから古関祐而氏曲、藤山一郎氏唄の流行歌と銘打った「山の唄」(片面は北原白秋氏の「平右衛門」だった)で不意打ちに二十円送金して来て承諾印を押されたものである。高橋兄が上京して来て苦労したことについて、佐々木すぐるさんは私に色々語っていた。コロムビアでは「高橋掬太郎の出勤簿をつくらねばなるまい。何しろ専属の西条先生に中々作詩を頼む訳にいかない。相手はビクターだ。仕方ない。応接室に毎日つめている高橋掬太郎君に代打を頼むか」となり、ついに一年後、コロムビア専属となった――ということで、昔、感心したものだ。
 この佐々木すぐるさんからも“アンタ、幼児向きの舞踊童謡をかいてくれませんか”と昭和10年ころからいわれながら、つい書かすじまいで申訳ない。
 さて、日華事変直前の昭和11年か12年か忘れたが、名古屋の原比呂志、榊原清彦、故樋口義重諸君を連れて下田港―伊豆大島―東京へと廻遊した時、渋谷での私らの歓迎会席上で故久保田宵二、故加藤朝鳥、林柳波等々(どちらかといえば、民謡、歌謡、童謡詩人が多かった)で、私へのつるし上げが開会の言葉だった。当時、私はキングレコード専属の小股久氏(名古屋)の関係で、コンビで出京しレコード界で一暴れするというデマが飛んでいた。そこで、上京しろ、するな――と久保田、林両先輩の仲へ割って入ったのが高橋兄だった。高橋兄は本当のことをいっていた。故久保田兄は「中山君、レコード界へ出てくるな」といい林柳波兄は「出て来いよ」といっていた。高橋兄は、「中山君が出京して来たら正直いって困るが、新風を吹込むために歓迎する」といってまとめてくれた。私は唖然とし、ビックリ仰天したものだ。この時、私がいったことは「富山で飯がくえなくなったら少なくとも三年間くうにこまらぬ用意をして来て上京し、一暴れする。ただレコードで飯をくうつもりはないから」といって、やっと一息ついたようである。あの当時、門田ゆたか、島田磬也等々の人々は美少年で、田舎侍の私らをほれぼれさせたものだ。
 渋谷での私らの歓迎会の席上、わいわい電話がかかり、大急ぎで池袋での会へかけつけたが、この会は現代詩が中心で藤田健次氏中心の故伊福部隆彦兄や中野武彦等々の面々であった。池袋の現代詩の連中の会はあまり覚えてないが、渋谷での会の久保田、林、高橋各先輩の口合戦は今でも昨日のように歴然としている。あの時の高橋兄のまとめぶりは流石だ――と今でも感心している。
 高橋兄が69才(と思えない位若々しかったが)で、春に背いて“花と散る”直前、黛(たい)子夫人が四月七日付で「昨日は主人にお見舞をお送り頂き誠に有難う存じました。四、五日前に胆のう炎と判明しましたので目下最適な治療を受けております―」云々と代筆してよこされたのに対し、折り返し切々と激励の葉書を出したのに、それも見ずに(郵便ストで遅配)昇天してしまい痛惜至極だ。私は通夜にも告別式にも行けず、ただ、供養酒をのんで「酒のめど涙あふるる良き友のなにゆえ春にそむきて散りし」と家内に弔電を打たせただけである。(というのは親しい人とのこの世の別れにあいたくないからだ。見送られる人はいいだろうが、この汚土に残つて悪戦苦闘している私にとって、親しい人々の残していった重荷を背負い暗夜を泣きながら底知れぬ谷へと急坂をかけ足でいく愚かな老残、老醜の私にとって耐えられぬことだからだ。4月16日青山での高橋兄の葬儀は盛大だったと詩友はいっていたが、さもありなん――の思い切々である。(以下次号)45年4月19日正午、供養酒のみつつ走り書き)

掲載誌:『詩謡春秋』16号