『空しく埋没したり、忘れ去られようとしている優れた詩人や、詩壇の蔭に隠れている功労者を再発掘して顕彰しよう』――は伊福部隆彦氏と一昨年来色々練つていた計画の一つで、顕彰NO.1に故人の杉江重英氏(富山市出身)、岡本弥太君(高知)等、生存者の藤田健次氏(富山県立山町出身)の名を挙げていた。
だが、伊福部氏が正月十日急逝したので、折角の計画も一頓挫となつた。ただ、藤田氏顕彰は二月着手し、百数十人の有志の浄財で詩・民謡・句収録の処女作品集を近刊できる運びとなり、伊福部氏の遺志の一つが実現するので、先ず先ずと思つている。
ところで、最近一部の新聞文化欄で紹介された福田夕咲氏も、埋没し忘れられている人。今度地元の飛騨高山で再発掘され、福田夕咲全集(人見東明氏序・限定五百部・千八百円)が出版(十月)されるのは嬉しい。尤も伊福部氏に夕咲氏(福田正夫氏と紛らわしいので以下夕咲氏と書く)の再発掘案を云つたが、賛成してくれなかつたが……。
夕咲氏は本名有作、明治十九年高山の旧家に生まれ、早大英文科在学中から詩作し、四十一年早稲田詩社に加わり“口語自由詩”の勇敢な実践者となつたが、相馬御風、人見東明、川路柳虹、三木露風氏らの蔭に隠れてしまつた。
明治末葉に早稲田文学に発表した「疑惑」は、ストリンドベリイの「父」と同じテーマを扱つた新鮮な詩で、「当時の自然主義詩の傑作」と乙骨明夫氏が「学苑」(昭和41年11月号「福田夕咲論」)で、高く評価しているようにいい詩を書き、四十二年早大を出ると読売新聞文芸記者になり、自由詩社結成にも参加し五年余活躍(四十五年処女詩集「春のゆめ」出版)、大正三年五月29歳で家業を嗣ぐため高山へ帰り、所謂「詩壇」と離れ、忘れられてしまつた。
私が富山にいた頃、夕咲氏と何度か会つた。昭和二十三年四月、63歳の若さで他界するまで高山魚市場常務をしており、時々富山へ商談に来ていた。ずんぐり、むつくり、重厚だが、風采のあがらぬ“田漢”的な愛酒家だつた。
昭和初期、私が小誌「詩と民謡」(現「日本詩」)に、高村光太郎、伊良子清白諸氏と共に新作の寄稿を頼んだら、夕咲氏は『久々に書いた』と民謡を呉れた。高村、伊良子両氏は『他ならぬ君の雑誌だから――と思うが、自信作が書けぬ』のでと叮重に断つて来た。それはいいが、次号の寸評で「福田夕咲氏ともあろう人に似合わぬ作品」と一行書いたら、激怒を買つていたことを後日知つた。
当時、夕咲氏は飛騨短歌界の指導者(今でも門下の大埜医博らが歌誌続刊)で、地方文化に貢献していたが、和仁市太郎君(源氏鶏太君等と昭和初期の「新詩脈」同人として活躍し、現在「山脈詩派」主宰)の若手詩人側と対立の感があつた。そんなことを知らず、二人に案内したら、歌人、詩人両派合同の歓迎会が開かれ、両派は私の両側に講和会議の席のように向いあつていた。
宴後、夕咲氏はカフエへ私と和仁君を誘い、『あの酷評で絶交する積りだつたが顔をみたら何も云えなくなつた。飲もう』となつた。正直ないい人だつた。
没後、高山に夕咲氏の歌碑が三つ建ち、除幕式に出て、どことなく白鳥省吾氏に似た俤を偲んだものだ。健在なら83歳、勲五等ぐらい貰つていたかも知れないが…。
(詩人)
掲載誌:『詩人連邦』1968年7月号 147号