随筆

「名というもの」

 名なんて符牒で、背番号みたいなものだからどうでもいいと思うが、「名を重んずる」「名を汚すな」「名は体をあらわす」などと昔からいわれているし、そう馬鹿にできないようだ。
 親達が子の名を太郎、花子等、(この平凡な名が、案外当つて桂太郎とか詩人山本太郎とか「おはなはん」とか等々脚光をあびる場合もある)といい加減につけるよりも、名に適わしい「体」になるようにと色々考えてつけるのが普通である。私も自分の子の場合は勿論、十数人から名づけ親を頼まれた時も、買つて来た姓名判断の本を調べ苦心して命名したものだ。
 この姓名判断の名人級に富山で「日本詩」を出している早川嘉一君がいる。早川君は姓名を聞いただけで、全盲に近い目を閉じて字劃等を案じ、即座に性格や運命をズバリ当てるから不思議だ。
 昔、或る姓名判断の大家が私に「あんたの名の下に一の字があれば太政大臣関白の位につけたのに……」と惜しんでくれた。亡父は多分、『中山輝一首相』が出現すると国民が困るとでも思つて、一の字をつけなかつたのだろう。『今からでも遅くない』とて輝一にすることを勧める人もいるが、えらくなると暗殺される惧れがあるから、御免蒙つている。
 話は別だが私の知人の中に、姓名判断で改名したのが相当ある。伊福部隆輝大人が隆彦に改めたのは、姓名判断でなく自己判断によるものだろうから別として、私の駆け出し記者時代以来の仲よしで某新聞副社長をしていた某君や、地方ではトップクラスの共産党最高幹部の某氏(東大哲学科出)、さては青年時代アカで、晩年に社長として、県社会教育委員長として活躍した某氏等々、姓名判断で名を改め、前よりも幸運な身となつている。
 彼是考えると、名はイメージを伴う。だから雅号、筆名が昔から好まれている。田中富雄より源氏鶏太、加藤和枝より美空ひばりの方がイメージをよくする。腰巻より湯文字、寝巻よりネグリジェ、月賦よりクレジット、猿股よりパンツの方が、いいイメージを与える。私も小学校五年生の時から雅号、筆名を沢山使つて来た。
 ところで珍名に移ろう。CMの「上からよんでも山本山、下からよんでも山本山」に似たのでは、昔の代議士の大石大、元検事総長の佐藤藤佐等があるが、上下左右表裏どこからでも同じいのは、私の長兄中山中である。
 中部日本新聞社長の与良ヱ氏はヨラアイチ(愛知に因む)とよむので有名。昭和初期だが、富山県の海岸の町に素麺清造、味噌屋正勇(しようゆう)、酒倉与一蔵(よいぞう)氏らがいた。百姓町人は明治初年、適当な姓をつけて貰つたのだが、戸籍係に頼むととかく珍名にしたがる。
 「お名前博士」の佐久間英医博(東京)の話によると、姓で一番多いのは鈴木で、全国で約二百万人次が佐藤、田中、山本、渡辺の順だそうだ。変つた姓では、月見里=ヤマナシ、小鳥遊=タカナシ、四月一日=ワタヌキ等々。姓と名では、国鉄修史課長の阿井卯栄雄(アイウエオ)、東京足立区・洋品煙草店、「一二三堂」主人の一二三一二(ヒフミカツジ)、神奈川県の医師の富士山(フジ・タカシ)諸氏がおり、長いのでは大阪の中学生藤本太郎喜左門将時能君、異色組では数千万人(カズ・チマト)氏がいるげな。
 珍名ではないが、仏文学者の鈴木信太郎氏と画家の鈴木信太郎氏などは、私のような田舎者をまごつかせる。序に東京都二十三区の電話帳を見たら鈴木信太郎氏が十人いた。さすがに中山輝は私一人だけで、中山テルは、孔版印刷と酒場経営の女性二人、中山照(私の嫂は中山照子なので、昔兄からテルと呼ばれると私と嫂がよく鉢合わせしたものだ)と、中山輝子が一人づついるのを電話帳で見た。
 序にいうと、今でこそタカクラテル、宮田輝氏らのおかげで私も女にされなくなつたが、文学少年時代、中山輝子様御許にという、見知らぬ文学青年から恋文をよく貰い、「小生は女性に無之候」とわざと四角四面の返事を出したりしたものである。西条八十氏も、西条ハナ子様御許にという手紙を貰つたそうだ。
 輝という名は珍しかつたのか、私が育つた山村で、向いの家の長男は輝正(私の次兄は安正なので二人の名をとつて)、左隣の家の長男は輝雄と命名されて、「輝ちゃんにあやからせてもらつたベェか」と、親御さん達からいわれて喜んだ少年時代の懐しい思い出がある。(詩人、元北日本新聞社長)

掲載誌:『詩人連邦』1967年6月号 134号