随筆

「詩界随想 「ある」よりも「ない」のを!」

☆“十月号の「文学界」をみると、伊藤整氏が、かなり強い調子で、現代詩のわかりにくさを難詰している(中略)今日一般に現代詩のわかりにくさを言う人は、たいてい詩の中に何か自分につごうのいい人生観を期待している人のようである。詩というものを、あまりに性急に人生に役立てようとするから、わかりにくいということも起ってくる。C・D・ルイズもいうように詩は虹のように、ただ美しくそこに「ある」だけなのである。それは意味ではなくて物なのだから、わかるもわからぬもない。虹の意味をたずねることぐらいばかばかしいことはないだろう”―これは現代詩人会長野村四郎氏(読売十月五日夕刊)の文だ。味読すべきだが、詩への考え方は区々で、詩は「在る」物に違いはないにしても、それだけがすべてでない。前衛美術に対する批判と説明に通ずるが、詩人は「ある」事物への凝視、表現も大事であるにしろ(殊に初歩)むしろ「ない」ものを凝視しその秘奧を摘出すべきだ。問題は表現の難易や、便法や材料や角度でない。詩人の眼がどこにあるかだ。山がそこに「ある」から登る―と同じでは真理の一つであっても話にならぬ。「ある」ことからその奧、その先に詩がなければならぬ。
☆現代詩が難解だから流行歌が氾濫し、リバイバルになる―と世相を詩人の責にする向きもある。芸術家と芸人の境がなくなったが、NHKがいくらラジオ歌謡(ホームソングなど)を奨励しても資本主義は置去りにしてゆく。逞ましい生産者の詩よウタよ、生れ出よ。消費文化のアブクに溺れては誰も救われないのだ。笑うものは資本だけだ。詩謡よ、物資のドレイになるな。地の塩、世の光になれ。(T・N)

掲載誌:『詩と民謡』1961年11月号 19巻5号