☆アンドレ・ジイドは「真に価値ある作品は屡々後になって初めて理解される託言だ。然るに専ら目前の要求に応えるべく汲々としているような作品はやがて全く無意味なものとなる惧れがある」とし「最大多数の賛同や彼らの与える喝采や成功や贔負はいつも大衆がすぐ得心できるもの(即ち画一主義)に赴くものだ」と言い「大多数は“見覚えのあるもの”即ち通俗的なものしか欣ばない」とのべている。詩と商品歌謡にあてはまろう。またジイドは「スタンダールやボオドレエル、キーツまたはランボオのように後世のためだけに書き心の中で“私の作品の読者は未だ生れでてきてはいないんだ”とくり返しながら仕事を続けてきた」と告白している。私らは誰を対象に作品を書き発表しているのか。自慰か。否、私らは個性に輝く普遍性、永遠なるものをめざしているのだ。名利を超えて、真実を、永遠を凝視しよう。
☆年輩者は大正の少年時代に「日本少年」という少年雑誌にのった有本芳水の詩を多く忘れずにいよう。その芳水老の詩碑が岡山県知事らの肝煎で岡山後楽園に建った。それにしても、今の少年雑誌は童話や詩を駆逐して漫画ばかりだ。出版業者や編集者らは自分の子に何を読ます積りか。心の糧を与えず「十七歳」を恐れるのは漫画にもならぬ。永遠性への扉の鍵をわすれて、五官に愬える有限性(金品を含めて)だけに縋るのでは当人も救われまい。抒性を蔑む人は蔑まれてよい。(T・N)
掲載誌:『詩と民謡』1961年2月号 19巻2号