★「偉大な詩人は学者の目で自然をみることができた。でも彼は瞬時も詩人でなかったことはない。天候も川も―それは彼の詩の生きた登場人物なのだ」とはM・イリーンの言葉(「人間と自然現象」の一節)だ。
イリーンはまた「学問のすすめ―それは芸術だ。この課題にとりくむ本は詩の本でなければならない」と主張(サムエル・マルシャークは、「わが弟イリーンとその作品について」で明示)しているが、当然の理だ。さらに「詩を念入りに読む癖がつくと大きな利益が二つある。一つは程度を心得て運命を無暗と怨まなくなるし、もう一つは気位が高くなって偶然起こることで悄気ず、嘲笑や非難を穏やかに受取るようになる(中略)非難が空になって心に触れず、改めさせたい事柄には届かない。とにかく詩を読んで巧い言廻しや気になる内容が見当ったら、哲学者の教を引合に出すと一層それが強められる」とプルタークは「倫理論」で喝破している。「詩は救い」とする持論は古今東西同じで、詩の功徳は詩徒のみに与えられるものだ。一文にもならぬ詩をかく詩徒への功徳は濁世を泳ぐ人に判るまいな。
★藤村は昔「誰でも太陽であり得る。わたし達の急務はただただ眼の前の太陽を追いかけることではなくて、自分等の内部に高く太陽を掲げることだ」と云った。云い得て妙だ。この言に内心恥ぢざる者ありやなしや。如何。
★「人生は一行のボオドレエルにも如かない」とは芥川竜之介の言だ。俗人菊地寬は詩を知らずに死んだ実業家にすぎぬが、もし詩を知っていたら?と思うと気の毒だ。我田引水の嫌いあるにせよ、詩の功徳を知る者は幸いなるかな!と故人の言を藉りて一言!
(T・N)
掲載誌:『北日本文苑 詩と民謡』1963年6月号 21巻6号