随筆

「詩界随想 詩・アルファ・死」

★作家高見順氏は十三年前胸部疾患癒え限定私家版第一詩集「樹木派」を出し今度また詩集「わが埋葬」を公刊?した。毎日新聞メモ氏(38・2・4夕刊)は「病める作家は詩によってよみがえった」とし「絵のない絵本を見ることができるのは詩人の特権」と高見氏の詩をほめている。そういえば作家井上靖氏(私ら昭和二年創刊した本誌の前身日本海詩人に四高生の井上泰として准同人で詩を発表していた)も昨年詩集を出した。詩を書く者は、昔は青少年に多かったが泡沫と消えた。真の詩人は死人に近ずいて生れ、真の俳人は癈人に近ずいて光を放つ。作家、画家、音楽家等何だろうが、詩から出発し詩で終るのが本当だ。詩は万人の救いだが、先ず自分の救いだからである。自分が喜ばず救われぬモノを書いて誰が喜び救われるというのか。
★「同じ詩歌の革新に志しながらも、藤村は新しいものができさえすれば旧いものは自然とすたれ亡びると考えたのに対して、鉄幹は先ず旧いものを徹底的に壊さなければならないと考え、そのために敵をつくることも辞さなかったのである」とは佐藤春夫氏の「詩文半世紀」の一節(読売38・1・21夕刊)だ。さて自分は、アナタは、どっちの方か。
★まァ形式も大事だが、問題は「その他」だ。今度直木賞を貰った山口瞳氏の受賞作「江分利満氏の優雅な生活」は文学か小説か等の論議で問題になったが、本人は「文学には価値の標準はない」としてズバリ直言(毎日38・2・2夕刊)している。芸術とはそんなもんだ。要は「プラスアルファ」だ。そのアルファが個性発見・独創だ。純粋もいいが蒸溜水ではどうにもならぬ。混沌から創造が出発する。形式論流行の時流を超えよ。時代に溺れず新時代をつくれ。それが詩徒の役だ。詩は死を想うところから生れる!という持論を重ねて特に若い人に贈りたい(T・N)

掲載誌:『北日本文苑 詩と民謡』1963年4月号 21巻4号