随筆

「詩界随想 名利をこえた砂金よ!」

★ちと古い話だが、一昨年五月ソ連雑誌“ソビエト婦人”に掲載され話題となった原爆禁止を叫ぶ詩“その手”の作者・富山県宇奈月町舟見出身の山下恵美子さん(二九)は脊髄麻痺で六年五ヵ月入院の伊東保養所を昨春退院、一足先に退院の下半身不随の金子賢治氏(三三)と結婚、金子氏は写真家、恵美子さんは作詩作曲家として新しい人生へ出発したが、生きる希望を絶った恵美子さんを再生させたのが作曲家八洲秀章氏であった。金子夫婦もさりながら、八洲氏の人間愛は讃えるべきだ。世に名利本位に動く詩、作曲家も多いようだが、それは濁世に浮ぶ塵芥だ。このニュースは中部日本新聞37年4月23日付社会面の隅にあった程度だが、真の芸術家の価値は名利を超えた不言実践にあることを示している。
★「円い金のお城がある 中には十二の 金の三日月のお室がある こびとさんたちは遊びにいっていない たったひとり 白い服きたこびとさんが ひっそりかんと お留守番だ」は無名の老詩人、武蔵野市の天津青雨媼(六五)の自作詩だ。この蜜柑を歌った新マザーグースに答えて「みなみのうみからきた きんのわねおふねはクリームでいっぱいだ」と即興詩を書いて示したのは小学二年生の孫娘。老女曰く「ひとりの無名の老詩人は、いまほのぼのとにおう残生を味わっている」と(毎日37・11・23)。世の似而非詩人、愧死せよ!である。真の詩人は濁世の底に砂金の如く埋れているのに多い。マスコミに乗り名利に迎合している“商魂”逞しい面々は虹を描くシャボン玉だ。それはそれとして、その存在意義と存在価値はあるが、それがすべてでないこと勿論だ。我々はただ馬齢を重ねているのでなく、砂中から砂金を発見し世に顕わすことも自己の存在意義だと知るべきだ。特に地方の無名詩人に期待する所以。(T・N)

掲載誌:『北日本文苑 詩と民謡』1963年3月号 21巻3号