随筆

『中山輝作歌 交声組曲髙志のうた』

 富山を離れて「砂漠東京」ぐらしが、もう十三余年になるが、年と共に「山の彼方の空遠くふるさとありと想うのみ」で、望郷の念強まるばかりである。幸い昭和初期から親交の川上幸平氏(東京大家庄会長、日本教育音楽協会理事長)とよくお会いして酒を掬み交わし、故郷のことどもを語り、また私の駄詩在京富山県人の歌「しろがねの立山は」や、「遠くふるさとを離れ来て都に住んで幾とせか」等々に、名曲をつけてもらったりして、人心荒癈の「魔都」に埋れながら、僅かに「心のオアシス」の救いに、「信と愛」の渇を満たしているような現状である。
 ところで、川上氏の令弟の黒坂富治富山大学教授とは、これまた遠い昔からの仲で、富山にいたころはコンビで、校歌、社(しや)歌、何々音頭、何々小唄、何々行進曲、童謡、小曲等、数多くつくったものである。
 その中で今でも忘れられないのは、富山が空襲で灰になり、物心両面の傷痍がまだ痛み疼き、物資難に喘いでいた二十二年ごろ、総曲輪(そうがわ)のバラック建ての富山座かで、詩・音楽・舞踊・演劇を総合した、樋口一葉の「たけくらべ」を、私の作詞、黒坂氏の作曲、西川扇珠女史の振付、富山演劇協会かの高沢滋人君らが出演で公演、超満員になったことである。何を書いたか覚えていないが、一つだけ時々、黒坂氏が興至れば独唱される短歌を覚えている。それは少年時代、与謝野晶子選で婦人倶楽部に入選発表になった「別れなば いつまた逢はむ 白雲よ そのまま凝(こご)れ 空の碑となれ」で、これが確か「たけくらべ」の冒頭(つまり序曲か)に歌われたようである。
 ついでに西川扇珠女史のことに触れたい。川上幸平氏が在富のころの昭和初期、故山岸曙光君の民謡雑誌「民謡風景」の同人だった故針原信義君に頼まれて、大山町の白樺(しらかば)平スキー場のための「白樺平スキー民謡」を作詩し、故麦島紀麿君(京都の御連枝様で、今小路家から富山市の旧家麦島修一郎家の婿養子になり、西川扇珠女史の義理の叔父さんになった人=令弟の今小路明麿君は私の弟子で、民謡集を出したが、今は京都で大学教授とか=で、当時コロムビア関西文芸部専属作曲家として、映画「右門捕物帳」主題歌等を作曲していたが、西川女史(当時は花もはじろうお嬢さん)が振付け、麦島君病気のため、川上氏が歌唱指導をし、総曲輪小学校講堂かで発表会が催されたことがある。
 もう一つ、二十三年かの秋、天皇陛下が御来県になられて、県庁(ちよう)にお泊まりの夜、私主唱の御前郷土芸能祭やらが、県庁前で開かれた折、私の駄謡「世紀の朝を進まれる」にはじまる「天皇陛下お迎えのうた」を、黒坂氏が作曲し、合唱指導されたことである。
 さて、五年前に黒坂氏から、交声組曲「高志のうた」を至急書いて送れと下命された。あわてて書いたが、長唄、清元、常磐津等の邦楽ものや、俳句、川柳等を挿入した新形式の叙事詩を書くつもりにしていたものの、忙しさに忘れてしまい、今日に至っているのが心残りである。昔からの悪い僻で、一気呵成に書いたあとは、何を書いたか殆んど覚えていない。今でも活字になったのを見て、初めて「こんなものを書いたか、もっとマシなものを書けばよかった」と後悔している。
 甚だ申訳ないことだが、交声組曲「高志のうた」も同じで、こんな拙速の駄作をよくぞ作曲されたものだと感嘆すると同時に恥入っている。ただ大伴家持卿の万葉時代以来の郷土の歴史、景観、産業、文化、風物等多少教育的に舌足らずながら素描し、青少年諸君を音楽を介して激励したいという、黒坂氏の意図を掬んだつもりであることで、諒とされたいと念じている。それらのため生硬な表現になっているし、民謡にしても郷土民謡の名を列挙して紹介したに過ぎないし、また「かぞえうた」も、年中行事などを季節に従って描いた程度で、私自身不満なのである。しかも各節とも長いし、韻を無視したりしていて、簡単に作曲できないと思われるのに、私の不充分で疎雑な言葉の羅列を超えて作意を生かされ、歌い易く作曲されたのは流石だと思っている。詩曲は、意気投合の夫婦によって誕生する愛児のようなもので、出来不出来があるにしろ、その子がすくすく育ち伸びていくかどうかは、生みの親よりも一般の人々の愛情如何にかかっている。その意味から言っても、私の駄作なんかどうでもよく、黒坂氏の「母情精神」による曲の良さが、永く歌い嗣がれていくだろうと期待している。
 私はオタマジャクシが読めない音痴なので、以前に曲譜をいただいたりしたが、どんな曲か一度聞きたいと思っていた。その念願が果たされた。昨年十一月一日夜、富山電気ビル大ホールで、「詩と民謡」創刊四十周年記念の「詩と音楽の夕べ」が催された際、初めて黒坂氏指揮による、交声曲「高志のうた」合唱を聞いて、多彩で美しく、明るく健康で、誰でもすぐ歌われるように出来ている曲に感動を覚え、ピアノ独奏のように、「詩のない曲」だけでも、黒坂氏の精神美が躍動して心琴を打ち、鳴り響かずにはおかないと思った。
 黒坂氏には一連の「高志の歌」があり、すでに「万葉」「御製」「鷲」各編が公表されていて、更に「校歌」「わらべ唄」「産業」「青年」「短歌」諸篇をまとめられるという。この交声組曲「高志のうた」も、その一篇として黒坂氏の還暦を記念としての上梓であるというので、月日のたつ早さに驚くと共に、あのお年(とし)にも似ぬ「万年青年」ぶりを羨み、私の駄作がどうやらお役に立ったようで、光栄且つ幸運に思っている。
 とり急ぎ走り書きして、新たな御出発の一起点へ祝意を表すると共に、駄作の弁明をさせて戴く次第である。

(昭和四十六年十一月二日正午、特急「はくたか」車中、東京都豊島区池袋一ノ五二六)

掲載誌:「交声組曲「高志のうた」に寄せて」