随筆

「坂口兄を悼む」

 昨年五月二十五日松本帆平兄夫人の御葬儀の際「奥さんに先立たれた悲しみは堪え難いだろう。西條八十さんも晩年に夫人に死別後の淋しさなどを“孤棲十年”と手紙やハガキなどに書いてよこしておられたが、先日は中山平治君、今また松本君と男やもめになって気の毒だ。女房より先に死ぬに限る。お互にそう心がけよう」と云ったら、羽田松雄兄は「そうだ。亭主が先に死ぬのが順だもんネ」と相槌を打ったが、坂口淳兄は「そんな点わしは気楽なもんや」と笑っていた。その折羽田兄は「坂口さんの家を安くするから買わないか」と云うので「いよいよ信州へ引き揚げるの? 淋しくなるなァ」と云うと「いや、時々出て来るよ」と云っていた。これが坂口兄と今生での最後の別れになろうとは夢にも思わなかった。
 その後、昨年七月下旬に土浦市で「時雨社」の集いがあった席上、羽田、松本両兄や三井良尚、都築益世諸兄から、坂口兄が脳溢血で倒れて入院中と聞いてびっくりした。酒も飲まないし、健康にいつも気をつけていた人だけに脳溢血とは意外だった。そのうち見舞いに行くつもりでいながら、富山へ諸用で帰省してしまい、日程に追われていると八月十九日夜か家内から坂口兄がついに亡くなられたと電話があり、暗然とした。参葬も出来ぬまま八月下旬帰京したきりになってしまったが、あとで聞くと、信州から奥さんと令嬢が駆けつけて来ておられたとのこと、独身とばかり思っていたのでびっくりしたが、一向よかったと救われたような気がした。
 あの「熊ん蜂」を編集から校正、発送と毎月続け、しかもその号に発表の作品の寸評をその号に書くということは大変なことなのでそのことを云うと「まァ、これが道楽というか、生き甲斐でネ。生きてる間続けていく」と云い、その言葉通り倒れるまで一人で続刊していた。余人の真似難いところだった。
 二人会うと寸評の難しさや弟子への躾の厳しさなど語ったが、全く同意見で共鳴するところが多かった。そして「お互に長生きするには憎まれ子世にはばかるで、大いに憎まれ口を叩こう」と笑い合ったが、坂口兄は私と違い、憎まれ口はあまり叩かず、作品への構えは厳しくても思いやりのある心温い人だった。だから、惜しまれて早世したのだろう。
 中野栄子さんのお作品集出版祝賀会などでは司会から万端心配りをしているので、感心してそのことを云ったら「ひとにまかされん性分でネ」と苦笑していた。
 あまり社交家でなくお世辞下手だが、生面目で自然と人への愛情が豊かで、その癖孤高の面があり、いつも雲の行方をみつめているようなところがあった。実にいい人を失い、淋しさ限りもない。

掲載誌:『熊ん蜂』坂口淳追悼号