随筆

「創作民謡と片平君の「不惑貧乏」などについて」

 近年、民謡詩人が次々亡くなり、身辺頓に淋しくなつた。山岸曙光君は、「時雨」の羽田松雄君にいわせれば白秋・雨情ではない「曙光民謡」で一生貫いたというし、恩地淳一君にいわせれば、片平庸人君も同様に「庸人民謡」で終始した――というわけ。
 昨年末の古谷玲児から今年に入つて藤田日出雄、藤田健次(花沢豊君は童謡の方だから別だが)と相次いで民謡詩人が亡くなつた。
 二十四日都下・清瀬町の羽田松雄君宅で民謡詩人の会があり、私は遅参したため、待つていてくれた坂口淳、三井良尚、高橋真吉その他の諸君に失礼したが、松本帆平、槇恵二郎、羽田諸君と「詩と民謡と歌謡と童謡」その他について歓談した。その折も持論に一寸触れたので書いてみよう。昔菊池寬は「詩は亡びる」と、室生犀星は「詩をすてる」と文芸春秋にかいたが、詩の判らぬ菊池寬の寝言は別として、室生犀星は詩をすてることが出来なかつた。脱線するが、現代詩を書いている連中は判らぬ癖に民謡、歌謡、童謡を軽蔑していて自慰・独断の増上慢ぶりを発揮している。ところが、私の知る限りでは、民謡詩人は歌謡詩人を、歌謡詩人は童謡詩人を眼下に見下している嫌いがある。これについて書くと長くなるからやめるが、これらはすべて自分の不勉強を広告しているようなものだ。真の詩人は何でも個性を発揮して書くものだ。こんな島国根性、派閥根性から脱けきれぬ日本詩壇(少なくとも)の叩き直しをしなければならぬ(義兄弟の盃をかわした伊福部隆彦氏とこんな憎まれ役をすることにしていたが、正月急死したので、もはや孤軍奮闘のほかないが)と、力んでいる。松本帆平君も大いに煽動してくれていた。
 面白いのは民謡詩人でも消息を絶つたり、あまり書かなくなると「死んだ」と想われることだ。仙台の渡辺波光兄がそう思われたので「小誌(日本詩)に何か書くように」とハガキ出したら、今春近作を発表した。高橋掬太郎君は日本民謡協会の会長(理事長)になつたので、「民謡詩人を表彰しようと思うが、序に渡辺波光氏を訪ね、表彰第一号にしたい」と電話をよこしたので大賛成しておいた。
 九州の藤潤忠一君も死んだ―と思つていたら藤田健次氏未亡人の電話では健在だ―ということだつた。思えば民謡詩人なんて、一文にもならぬ民謡を書いて貧乏のうちに死んでいく哀れな存在だ。それからみると印税をタンマリ稼いでいる歌謡、童謡の面々は、生きている間に詩碑がいくつも建つ。七月末、沢山の詩友と湯田中温泉で二泊、関沢欣三君の「童謡人生」社、大日方千秋君の「まりん童謡」社の関東・長野県詩人合同詩話会(童謡が中心)に出た帰途、柏原の一茶旧蹟めぐりをしたら、名古屋の中条雅二君の「一茶のおじちやん」の童謡碑が建つていたのでビックリした。(中条君よ怒るな)
 羽田君の時雨最近号で新潟の小柳俊郎君は菊池寬のように「民謡は亡びる」式なことを書いていた(これは小柳君の私信を羽田君が抜萃して発表したものだから、論旨不十分)が、判らんでもない。というのは、創作民謡なんて昔ならいざ知らず。ミイハア族天下の今日ではマスコミも見向きもしない。第一「金が万事」(源氏鶏太君の小説の題ではないが)の末世に、一文にもならぬどころか、あべこべに金を出さねば「発表の場」のない創作民謡を書こうとする感心なミイハア族はいないし、白鳥省吾、玉置光三、広瀬充等々の七十歳以上の老頭あたりが、トップを切つている位で、ミイハア族の中に、もし創作民謡を志す者がいるとすれば、よほどの反骨か、バカである。この忙しい時代に記紀万葉、さては梁塵抄等々を身につけ、詩等々を卒業して「民族・民衆のうた」であるフォークソング・民謡を書くなど、。とても出来ないだろう。だから創作民謡は老境前後の少数の、枯淡な心境(人生の甘いも酸いも噛みわけて悟道に達した)にある本モノの詩人しか書かない(いや、書けない)ため、稀少価値のある存在となるわけだ。それも次々死んでいくので「創作民謡は亡びる」という見方も否定できない。
 今、民謡論を書く暇もないから省くが、民謡の根本的技法は二十六音(三四・四三・三四・五)で、いわゆる俚謡(都々逸調)にあること御存じの通り。昔、萬朝報等での俚謡は盛んで、別に「俚謡春秋」などの月刊誌があつた位であつた。それがもうほとんどマスコミから姿を消してしまつた。私は十数年前、北日本新聞で俚謡欄を設け山岸曙光君を選者にしたことがあるが(山岸君は大正時代二上俚謡会を主宰し富山日報で選をしていた)応募者は少数で振わなかつた。山岸君は民謡短章、高橋掬太郎君は短謡(小誌「日本詩」に私の依頼で連載)と銘うち、松本帆平君は定型詩の名で二十六音詩を発表しているが、俳句、短歌と違つた色々の制約があるので、ミイハア族にはとても手が出ない。ここに創作民謡不振の一因がある。
 さて本題に入ろう。今度一年がかりの恩地君の骨折りと壇上春清君の努力、森下陶工、八十島逹也等の人々の協力で、待望の片平庸人民謡詩集「不惑貧乏」が出た。予告を見た時早速一本を予約していたので入手できて喜んでいる。片平君の童謡集「日時計」は先年津田頴男君の心こもる美術印刷によつて出て同君から貰い、深い感動を覚えたものだが、今「不惑貧乏」を手にして感無量だ。
 往時茫として夢の如しだが、高橋掬太郎君がまだ函館で新聞記者をしていた頃、函館も創作民謡が盛んで、片平君や志田十三、額賀誠志諸君が書いていたように思う。それぞれ文通したり、雑誌などを貰つたりしていたが、ついにあわずじまいである。片平君が函館の海で死んだということは少しも知らなかつた。戦争のため函館の連中とも音信不通になつたからである。片平君が自殺したのか、誤つて海へ落ちて死んだのか、よく知らないが(青森の川島健至君らに聞いてもはつきりしない)片平君の死を聞いたのは大分あとであつた。志田、額賀諸君の生死のほども定かでないが、まだ死んだと思われないからせめてもで、片平君の死を知つた時はシヨックを受けた。それほど片平君の作品は深い感銘を与え、また同君の独特の字の諸信は人柄を示し、同志という思いを抱かせていた。
 それにしても片平君は恩地、津田、壇上等々のいい詩友を持つていて幸福だと泌々思つている。作品がいくらすぐれていても、人間性がダメだと、死後埋没してしまう(数多くの例を知つている)のが普通だ。片平君が生前も死後もいい詩友に恵まれ、こうして民謡集を出して貰え、惜しまれているということは「文は人なり」の高山樗牛の言そのままの好漢だつたことを物語り、世の詩人への頂門の一針になるといつていい。(序に蛇足を加えさせて貰うが、いわゆる「詩」しか書けぬ「詩人」は冷酷非常なタイプが多く、民謡、歌謡、童謡を書く詩人は人情こまやかだ)
 本集を読むと、戦後復刊した「詩と民謡」(「日本詩」と改題)に書いた作品も収録してあるというが、どれがそうなのか覚えていない。早川嘉一君にでも聞くほかないが、そんな点からも私らとは因縁深い。恩地君からの命令に従い、素読感を走り書きしよう。
 「鴉追い篇」は昭和八年~十二年の初期作品三十数篇から片平君自選の二十篇(十五年刊)を収録している。総じていえば、片平君独自の閑寂、飄逸、枯淡、泥くささ(これが民謡のカナメ)がよく出ており、方言も巧みに生かして味を出している。方言は残雪余情、千秋楽に、ハヤシは鴉追いの「ほうてば」等生きている。いわゆる俚謡形式のものとして微恙籠日の〈しぐれ/しぐれヨ/雨戸をはらゝ/濡らす寒さの/遠ごころ〉や江差微吟の〈畑の日ざしは/斜めに寒く/婆が汽車みち/尿してるヨン〉など、高橋掬太郎、三井良尚、都築益世、松本帆平、山岸曙光諸君のものと違い、哀艶などはないが閑寂さを発揮している。まア、見方では藤田健次氏の俳句精神を源流とした民謡に一脈通じているものがある。
 その他、冴えた技巧に見る宗教的な高さ(哲学精神は薄いが)が心境を反映して随所に唄われている。例えば巻頭の「訪客」の末尾〈それ火が点くぞ/葉鶏頭〉などは、白秋の〈ものいわぬ/金無垢の弥陀の重さよ〉に匹敵するものだ。
 「不惑貧乏篇」は戦後間もない二十三年二月片平君が「覚え書」を書いて三月出たもので「鴉追い」以後三十数篇からの選抄だが、この八年間童謡を盛んに書いていたという。篇中の作を一々とりあげている訳には参らないからやめるが、「無題」は片平君の親友だつた石川善助(前述「訪客」参照)さては山村暮鳥氏らに似た宗教精神の現われを示しているし、「舗道秋曳」は昔都築益世、月原橙一郎、長田恒雄諸君が農村民謡の向うを張つて都会民謡集「三角洲」等を出したのに対したもので今でも高く買える逸品だ。都会にある侘びしさが実に心憎いまで出ている。さらに「風の日」の〈落葉と吹かれて/お散歩の/築地のらくがき/切通し〉の俳味、枯淡、淡彩は得もいわれない。
 片平君は「覚え書」で「うぶすなの山野を心とする民謡詩人は、近年漸く数すくなくなつた。私の如きは生き残りの一人と申せましようか、顧みてうたゝ一抹の感傷なきを得ない」と書いているが、これは私ども老残者の言を二十年前代弁しているようなものだ。
 「とつてんかん篇」は九年前の三十四年十一月壇上君が「季節の窓」叢書第一集として出したもの(私は当時東京赤羽の病院に入院し毎日「死」と対決していた。入院中に佐々木緑亭氏も死んだとあとで知つたが)だが、「鄙唄」の〈口に合わねど/まくわ瓜/土賊の岸に/冷あすべ〉のよさ、「編集子」の時事風刺、「忌引」の軽快など、片平君ならでは―の世界である。
 とりとめもないことを書いて申訳ないが、実を申すと毎月二十冊前後の本を誰彼から貰つていて一枚のハガキも出せず、まだ読めずにいる現状だし、以前恩地君から壇上君の数々の作品集について何か書けといつて来ていたもののまだ果たせずにおり(それどころか壇上君に一枚のハガキも出していない)誰彼は「傲慢無礼、生意気な奴」と思つているだろう。ところが、片平君の全民謡集上板への恩地君らの労苦に頭が下がり、片平君を偲ぶあまり、つい長々と駄筆に及んだわけである。
 片平君の冥福を祈ると共に、恩地、壇上君らに深甚の敬意を表する。(八月三十日酔余御免)

掲載誌:『歌謡列車』26