(1)歌謠輕蔑の話
歌謠研究最近號で山口義孝君は「民謠詩人が歌謠詩人を輕蔑してゐるのはけしからん、なぜ輕蔑するのか根據を具體的に示せ」と気焔を擧げ、先夜東京の澁谷と池袋で開かれた僕等への二つの歡迎會でもそんな話が出た。そして池袋の席上、山口君などまるで僕へも鉾を向けるやうな口吻をみせた。田舎から二泊の豫定で出京した僕は、案外歌謠畑にこんな風な悲憤慷慨があるのをみて唖然とし微苦笑を禁じ得なかつた。どうもみんな神經がこまかすぎやしないか。僕は詩も民謠も童謠も小曲も書いてゐるが廣義の民謠の中へ「歌はれる大人のウタ」として狹義の民謠、小唄、流行歌、歌謠等々を入れてゐるのである。僕らは何も狹義の歌謠流行歌を排斥してゐるのではない。たゞ廣義の民謠(民族詩)の健全な發展を志してゐるものであり、たゞこれを對蹠的に藝術良心を沒却し商品的歌謠を以て至上とする徒輩の態度を戒めてゐるにすぎない。僕は山口君等の聲に今こゝで兎や角いふ時間をもたぬから云はぬが僕等の論を熟讀して呉れゝばすべて理解される筈だ。詩人は何でも書くのがよいのだ、また書くべきだ。僕も書くつもりだ。たゞ心すべきことは眞個の詩人とはどんな使命をもつてゐるかといふことをよく知ることだ。詩は、謠は、音樂面と文學面から成り立つてゐるが、現代の多くの歌謠は文學面よりも音樂面に重心を置いてゐる觀がある。甚しいのは音樂の奴隷化せしめてゐる。そこに邪道があり、輕蔑の問題がある。要するに詩人の態度の問題だ。しかし僕はかう思ふ、狹義の意味の民謠、歌謠、小唄、流行歌等の形式や分類はどうだつていゝ(區別や本質の差異など位は辨へてゐなければならぬ)、すぐれた作品を書け――である。何も角突き合ひをせんでもいゝ、淸濁玉石併せ呑む型もいゝ、そのうちに「淸」と「玉」が殘る、また「淸」と「玉」だけ書くのはなほいゝ、たゞ「濁」と「石」のみを以て「淸」や「玉」よりも最上也としそれのみを書く態度を難ずるだけである。詳しい話は後日にしよう。
(2)伊福吉部隆氏に物申す
本誌の十一日號かで茶谷與左久君を激賞なすつたがあれは良いとして、その中に気に食はぬ個所がある。それは今までの民謠詩人の中で松村、久保田兩人以外すぐれた者がゐないといふ意味の文である。僕があんたに文句をいふのは、どうも仲間喧嘩みたいでいやだが、僕でも云はなきや恐らく云ふ者がなからうと思つて僭越ながら代表格で罷り出た次第。
あんたの潔癖さは好きだし、松村、久保田、茶谷三名以外の他を抹殺するあんたの氣持は理解出來るが、しかしこれ三人に限定するといふことはどうかと思ふ。好き嫌ひは本人の自由だから詮方ないにしても、云ふ人は他と違つてあんたの事だから相當強く應へるのである。とつくり御覧じませ、まだ三人や五人はゐますぞ。誰と誰か、これは讀者と共に一つ考へようではありませんか。
(3)詩歌懇話會
詩歌懇話會も統制の世の中ぢやデ、結構である。仕事はどう遊ばすか知らんが、詩話會時代のやうな黨派根性や宗匠根性、封建時代の遺物は眞ッ平だ。もし懇話會賞でも出すとなつたら思ひ切つて新人賞にしてほしい。
(4)歌謠賞
自由詩畑の同人雜誌などでは詩人賞や詩集賞を制定して實行してゐる。いゝ企てだと思ふ、歌謠畑でもひとつどうです。だが一雜誌や一グループの賞なら眞ッ平にしよう活字でもいゝ、ラヂオ、レコードのものでもいゝ、歌はれるウタに對して大家、中堅、新鋭、無名を問はず、綜合的に何らかの方法(例へば責任ある推薦投票)で年二回ほどに分けて、五人なり十人なり、五篇なり十篇なり、「日本歌謠賞」でも與へることにしたらどうだ。金は罪滅ぼしにレコード會社と放送局から出して貰ふといふ事にでもして、どうです皆さん。(僕が東京にゐたらこんなことも仕事の一つにするんだがなア)歌謠の「白秋賞」「雨情賞」「八十賞」等々も面白いテ。新人には勵みになるし、舊人には選擧にゆくやうな投票の興味性があるし、歌謠報告の一端にもならう。松本學さんでもやつたらどうでせうな。評論賞、民謠賞、流行歌賞等々賑やかに――思つただけでも愉快ぢやないか。
(5)詩の立體運動
詩も朗讀など盛んになつて來てジヤ―ナリストも注目して取上げるやうになつて來たのは結構である。さりながらいつまでも朗讀や朗吟でもあるまい。詩劇の放送などどうだ。伊波南哲君の「オヤケアカハチ」もよし、佐藤一英氏の「羽衣」もよからうではないか。(十二月五日)
掲載誌:『歌謡詩人』昭和十二年正月号