随筆

『魚中二士会 一枝十花』21号

(三)
 先日は何かとお骨折いたゞき有難う存じました。一年ぶりに拝眉しましたが、大変若返られたのに(佐々君のこと)何か秘訣でも?と思いました。柚木武夫兄もすっかりお元気になっておられたので一安心。そのほか老童たちに一年ぶりに会え、なつかしく嬉しく、楽しい半日でした。県外からの出席者が私一人だったのが聊かがっかりでしたが、一期一会ということもあります。まだしも七夕のように年々に顔合せのできるのは、有難いことでしょう。
 あの翌々日の二十日午前、黒部厚生病院三階病室に千代譲吉君を見舞いましたが、尾原和悦君がベッドを並べているのにびっくりしました。二人とも思ったより元気で、級友の誰彼のことを語り合いました。
 千代君は十七日付の貴兄のお葉書を見せたりし、右手など一寸悪い程度で言葉も案外はっきりした軽い中風とのこと、また、河村哲之助君が一ヶ月前か、東京の病院で右肺を切除して帰って来たなどと云っていました。尾原君は血圧が一時二五〇もあったと云い、近く退院するということで、千代君は脳から、尾原君は心臓(持病の心筋梗塞)からの軽い中風とのことゆえ、遠からず全快するでしょう。
 池館雪成君が住栄作君の代議士当選祝賀会に出て酒をのんでいたことを語ったら、千代、尾原両君とも目を丸くして喜んでました。お互いに喜寿を前にすると、級友の健康がひとごとと思えず心配になり一喜一憂するものですね。両君は「毎日ここで二士会をやっとるチャ」と笑っていたので、富山への帰りの汽車時間の都合もあり、再会を約して辞去しました。米田先生があの年で下駄をカランカランと鳴らしながら元気に三日市の町中を歩いておられる、学ばにゃならんチャ――という尾原君の言葉が耳に残りました。
 なお、図らずも柚木兄から河長園で北斗会(旧下新川郡魚中生の会)の会歌の歌詞を書いた紙を渡され、これもびっくりの巻でした。作った私自身が覚えていないのに、下級生の富樫長英君や梅田良雄共同建設社長の諸君が第一節を覚えていて、東京魚中会で合唱するので、第一節だけ思い出した次第でした。千代君らに尋ねても「覚えていない」というのでしたから。まさか気郁会の柚木兄が覚えていようとは夢にも思っていなかったのです。作曲は誰がしたのかと、これも誰にきいても判らぬので不思議に思っていたところ、これも私の作曲だと柚木兄がいうので三度ビックリでした。柚木兄は曲が好きなのでつい覚えたといいましたが、私としても好きな曲です。柚木兄にいわれて憶い出したのですが、古錆びたハーモニカで自身作曲した「月光の曲」というのを学芸会で図々しくハーモニカ吹いて発表したことがあり、自分の詩に自分で作曲(その後はオルガンひいて)したものでした。もしお宜しかったら「一枝十花」に北斗会々歌をのせて下さいませんか。
 昨二十二日朝、再び暑い「砂漠東京」へ二週間ぶりに帰って来ました。これからまた身体いくつあっても足らぬ忙しさに追われますが、多病息災を維持します。そのうち上京されませんか。事前にお葉書下されば東京の級友諸君に呼びかけ歓迎会を開きたいと思っています。十月上旬に川上嘉一君が上京するように云っていましたね。
 来年は泊地区の当番、来年の二士会にもぜひ出たいと「鬼の笑」をよそに念じています。
 何十年ぶりで見た滑川の海を、今も思い浮べて、報告がてら右御礼まで。(八月二十三日)

掲載誌:『魚中二士会 一枝十花』21号