随筆

「作品と人間性 剽窃の問題」3頁

日本詩人クラブ評議員・日本歌謡芸術協会副会長・元「詩と民謡」主宰

 「剽窃」とはどんなことだろうと、大体判っているつもりだったが、念のため漢和辞典や国語辞典数冊を繰ってみたら①他人の文章や説を盗んで自分で作ったようにすること②他人の文句・意見等を盗む③他人の詩歌・文章などの文句を自分のものとして使うこと④イ・人の目をかすめて盗むこと、ロ他人の文章・詩歌などの文句を盗んで使うこと、ハ・盗作― とあった。改めて「剽窃」の容易ならぬこと、よほどの者でないと出来ないことを思い知らされた。
 大正末期だったか、懸賞応募小説を選者の某有名作家(菊地寬、芥川龍之介等の親友)が剽窃して中央公論だったかに発表し、応募作家から問題にされて物議を醸したことがあった。文豪を夢みて小説などを書いて懸賞金稼ぎをしていた十代の私は、「大家ともあろう者が没になるような巧くない短篇小説を書き写すという煩雑な苦労をする筈がない」と不思議に思っていたら、案の定、某作家は締切日までに原稿が書けないので、没にした作品を自作の代りに推薦するつもりで渡したところ編集者も急ぐまま勝手に作者の名を大家の名にして発表してしまったということで、その旨某誌で某作家が書いて陳謝し、原稿料を作家に渡したことでケリがつき、私も自分のことのようにホツとして胸を撫でおろしたものである。
 その後、約半世紀の間「剽窃」問題がなかったが、近年、某女流作家と某作家の作品が剽窃だと騒がれ、両作家とも陳謝文を発表して話題になった。私のような愚か者には「あんな実力のある花形作家がなぜ剽窃しなければならぬのだろう」と、その心理状態が判らない。ただ、考えられるのは、「剽窃」はほとんど「金銭」につながっていて懸賞金とか原稿料に結びつかないものに「剽窃」がないということである。
 私は大正末期から昭和初期にかけて、詩、民謡、童謡、小説、評論、短歌等を書いて相当懸賞金稼ぎをしたものだが、色々の雑誌の中で、俳句・短歌等の短詩の入選作品が剽窃だったことが判り、入選取消の旨発表されたのを二、三見受けたことがあった。選者も無数の短詩を一々覚えている筈もないから、つい見逃すのも無理はない。しかし、僅か十七音の俳句でも剽窃は中々出来ない。いい作品は誰かがちゃんと覚えているからである。剽窃は要するに文学の世界での金が目当ての盗みで、美術・音楽等の他の芸術の世界では偽作・模倣があっても剽窃がない。
 最近の一例を示そう。私が副会長(故白鳥省吾氏が会長)をしている日本歌謡芸術協会(詩人・作曲家・舞踊家等で組織)で一役員が作詩したスキー小唄が同協会新作発表大会(三越劇場)と某地で盛大に披露され、作品も機関誌「日本歌謡」に掲載されたのを、地方在住の一会員が剽窃(地名だけ変えて)して他の某地で盛大に披露発表(勿論別にレコード吹込み)となって問題になった。常任理事会で剽窃者の除名公表まで審議したが、本人が「頼まれて作詩料を沢山先に貰い、日時が迫って思うように作れず、つい失敬した。詩人としての資格がない。今後、詩作を絶ち、協会を退いて、一生謹慎する」と公文書を提出したので、死一等を減じて除名処分までゆかずに済んだ。みんな、「馬鹿な奴だ。あれほどの実力を持ちながら僅かの金のために良心を狂わせたのか」と嘆き、真面目な男だっただけに惜しみ合った。今はただ神官としてノリトをあげていることだろう。
 ところで、富山県内で前代未聞(恐らく日本の詩壇でも)の詩の剽窃問題が起っていることを知って驚いている。Uという人はどんな人か、よく知らないが、多年親しくさせて貰っている北川冬彦氏主宰の詩誌「時間」で今度同人賞候補(選ばれた作品は多分「奥能登の女」だったように記憶している。)になった位だから相当実力のある人らしい。また、最近富山県芸術文化協会機関誌「芸文とやま1」に、「詩の土壌からの発芽」と題し富山現代詩人会の名で一文を書き、師匠なしで来ている私なのに「北原白秋門下の中山輝は」と誤って(白秋門下は氷見市在住の童謡詩人多胡羊歯君である。)書いている人である。
 その人が森田和夫君の作品を剽窃したというのはどうしてだろうか。どうも心理状態が判らない。悪く考えれば、北川冬彦賞(五万円か十万円)目当てでなかったか、とも思われる。でないと、一文の金にもならぬ詩作上の剽窃など思いもよらぬことである。
 詩作品はその人の遺書であり、「生きている証」として、自他の救い、慰め、励まし、祈り等となる一つの聖典でもある。だから詩作によってその人間性が磨かれ、その人間性の現われとして詩が生まれるのである。私は昔から「作品以前の人間性」を喧しく云って来ており、いくら作品が巧くてもその人間性が駄目なら相手にしないことにしている。
 U氏という人は、詩を功利的なものに考え、本末を顛倒しているのでないか。たとえ剽窃でなく自作であったにしても明らかに疑われるだけのものがある以上、人間性まで疑われることのないように出処進退を明らかにし凡愚の私らを納得させてほしいと念じている。そして「詩は人也、神也、一切也」の私の持論をよく考えて頂きたいものである。

掲載誌:『ある』33号