随筆

「わが生・わが死⑦」

★「わが生・わが死」の前提(この方が長くなった)として暫く諸説を藉りて、「生命」の解明への緒を続ける。フランスで生れニューヨークで死んだ古生物学者で人類学者のティヤール・ド・シャルダン(一八八一―一九五五)は著書「現象としての人間」の中で「方向をもった進化ということが宇宙の本然的な姿であり、精神と物質とは一元的で、意識は生命以前から存在し、宇宙の素材において精神機能と思考力(パンセ)が首位にたっている。生命以前、生命、思考力、高次の生命という四段階が、現象としての人間が描く曲線にのっている。現象を構成する二乃至三の《屡々対立的な》要素の相互関係に従って精神も発生を説いており、八杉竜一東京工大教授(生物学)によるとシャルダンの考えは「宇宙の発展により地球の表面に精神圏が成立する。これは新生代第三紀末における人類の誕生の結果で、この精神圏の作用は生命そのものの本質にも、広く地球全体の状態にも及んでいく。精神は未来においても収斂を続け、オメガとよばれる終局の点に向う。それは正に宇宙全体ともみられ、新しい神でもある。現代において自然科学は前進するほど、一方で科学者の、また人々の苦悩を深める。科学の線にのらないものを旧来の宗教で解決できないならば、一体どうしたらよいのか。これは同時に宗教者の苦悩でもある。「科学と宗教または形而上学、合理と非合理の新たな対決から“現象としての人間”は生れたものである」というにある。私は科学と宗教は対立しないという持論であり、仏法でも法華経がそれを明示している。
★それはそれとして別の説をみよう。地球上の生命はどこから来たのか。百年程前、ドイツの化学者リヒターは「地球上の生命は他の世界から流星に付着して運ばれて来た」と言い出し、スウェーデンの物理学者アレニウスは「宇宙のどこかで大爆発が起った時、微生物の胞子みたいな粒子がまき散らされ、光の圧力であちこちに伝わっていった。それが地球にも到着したのだろう」と考えた。そこで化学者たちが流星(隕石)を分析してみたら炭素や水素(炭素と水素は生命の根本といわれている)が多かったそうだ。最近米国エッソ研究所のメンシャイン博士が、百年程前南仏オルグイユにおちた隕石の破片をベンゼン油で抽出して分析したら、原油などに含まれているのと同じ水酸基や芳香族が出てきた。これは明かに有機物(生命の特徴)で、生命の分子が変質できるものと、流星に含まれていた炭素化合物が酷似していた。この研究をメ博士に勧めたニューヨーク大学医学部のジョージ・クラウス博士とフォード大学化学部のバーソロミュー・ナジ博士が、同隕石の破片に、アフリカのタンガニーカにおちていたイブナ隕石をコレクションに加えて、水とグリセリンで洗ってみたら顕微鏡にどうやら単細胞の藻らしいものが見えた。その怪物は円形で直径4―10ミクロン(一ミリの千分の四から百分の一)中には3ミクロンのものもあり、円筒形や楯型や六角形などあり、五種類のうち三種類はオルグィユ隕石とイブナ隕石の両方に共通して見つかった。どれも生物標本のように染色でき、中でもフォイルゲン反応(細胞学上極めて重要な染色法)で生命特有のデオキシリボ核酸(DNA)があるという証拠になる赤紫色の反応が出たという。次いでインペリアル隕石を顕微鏡で調べ「これは生物であった」と断定し公式の報告として発表した。
★これらに反対する学者は「他の世界から地球へ生命が飛来できない。途中で死滅する。地球上の生命は地球上で生れた」と主張している。だが、反対論者は従来の固定的な型にとらわれて一歩も出ず、観念的に反対しているにすぎない。どちらが正しいかは遠からず判ろうし、どちらを信ずるかも自由だ。私は前者を信じているし、世界の科学者の「地球以外の他の世界に生物がいる」の説も信じている。というよりも、宇宙自体が大きな生命であり、自分がその一部で、自分の生命は無始無終無限不滅の大宇宙と共にあるのだと思っている。中山輝の生命は忽然として偶然に世に顕われ出たのでなく悠久無限の太初から宇宙の一部として存在し、生々流転し続けてきたのであり、生れるべき必然性から生れ出たのであると信じている。従って目に見える中山輝の肉体は消え去っても、本来の中山輝の生命は永久無限に生々流転し続けてゆき不増不減、しかも不滅なのだ―とも。これは科学的にも云えることだ。生命の話などに駄筆を長々と弄している訳にはゆかぬからやめるが、俗にいう「死んでしまえばそれまでよ」なら気が楽だ。中々そうゆかないところに多くの人の苦悩がある。死に際、死にザマが問題なのだ。
(10・20)

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 十二月号 復刊50号 通巻150号 1964
北日本文苑詩と民謡社