随筆

「わが生・わが死③」

☆前回に拙詩を引用して地球から半径50億光年の彼方の新宇宙について一寸触れたが、序に蛇足を加えてみたい。私が東京・赤羽の大橋病院のベッドで苦悩し毎日のように次々飽気なく死んでいく人を見、20歳の頃のように再び「生と死」の問題に状面していた35年7月23日に米国パロマー山上の天文台が50億光年の向うに発見した新量は三C―二九五であったのであるが、昨年7月3日付読売夕刊はタス通信として「米ソの天文学者は地球から最も遠い星の一つとされていた三C二七三が恒星ではなく銀河系外曇であることをほぼ同時に発見した。これは三C二七三が地球から秒速五万キロで遠ざかっていることがわかったためで、銀河系内には秒速百キロ以上のスピードを持つ星はないからである。ソ連の電波天文学者イオシフ・シクロフスキー教授は次のようにいっている。「“この銀河系外星雲は地球から五十億光年の距離にある。計算してみるとこの天体の輝度は、最も明るい銀河系外星雲の輝度よりも、少なくとも数十倍も大きい。不思議なことは恒星でなければ見られない可変光線をだしている”」と報じている。パロマー山天文台が発見したのは三C―二九五だからこの三C二七三は前回の拙詩引用のものは別の大宇宙であるわけだ。
☆ところが、今年の3月30日付読売夕刊は米国カリフォルニア州パサデナ29日発APとして、ウイルソン山天文台とパロマー山天文台の両方の所属研究員であるマールテン・シュミット博士が、このほど宇宙の年令と大きさについての現在の定説を覆すほど遠く、またそれほど速く動いている天体を発見したと伝えていて宇宙の神秘さがますます増していくことが判る。この発見は電波天文学者トーマス・A・マシューズ博士の協力によるもので、信ぜられぬほど強力な光と電波を出しており、銀河系星雲が爆発しつつあるものだろうとみられている―というのである。この天体は三C―一四七と呼ばれ、今まで最も遠いとみられていた前述の三C―二九五よりも一割乃至二割遠くて、光の速さの半分くらいで遠ざかっているそうだ。これまで宇宙の大きさは半径百二十億光年、年令を百二十億年とされていたそうだから、宇宙はさらに大きく、さらに古く、ますます拡大されるわけで、人智が進むに従って宇宙の神秘も少しづつ解明されてくるだろう。それとともに、人智が進めば進むほど、人智ではどうにも判らない新しい謎とか神秘が出てくるであろう。
☆宇宙の年令が定設の百二十億余だとすると、百二十億年以前はどうだったのだろうか。宇宙というものがあったのか。なかったとすれば―等を考えつめてゆくと、もはや科学の力ではどうにもならなくなってくる。
★この忙しい時に、何も宇宙の無限大のことや素粒子などの極微の世界の生半齧ぢりのことを書かなくともよさそうだしという人があるかも知れない。何のためにそんなものを書くのか、また「わが死・わが生」などと貴重なスペースを割愛して貰って冗漫な駄文を連綿と書き続けるのか、いうとも人あろう。そこでこの際、陳弁させて貰うと、一つは遺書の一端(尤も詩や謡は遺書の一部みたいなものだが)のつもり、一つは「現代つ子たち」への“年寄りの冷水”のつもり、一つは私の愚作、駄作の背景とか素因とかを知っていただきたいしという意図からのものである。少年時代から沢山書いてきた詩や謡は駄作ばかり(自信のあるものは一つもない。死ぬまでに一篇でいいから“これが俺の自信作だ”と公言できるものを生みだしたいものだ)であるし死ぬまで書き続けるだろう。凡百の愚作は私の内在からでて文字とか言葉に化けた途端、つまり私の手を離れた途端に、それはもはや私の脱け殻、ウンコにすぎない。ただ私の内至としてカオスみたいにあるかなしかに在る間は私にとって救いであり、慰めであり、励ましになる“私”以外の“神”のようなものなのである。それが“私”から離れてしもうと、もはや“私”のものでない。もしも、私の駄作に関心をお持ちのお方があるとすれば、駄作のキイを通じて“私”という愚かな一箇の存在に潜在している“個にして全”なる“私”以外の“神”のようなものを窺知していただきたいと願うだけである。これは自惚でいうのでなく、かえって卑小愚劣な“私”を媒体として、いや“私”なる仮初の有限に宿っている。大いなる悠久無限の“神”のような普遍性の存在に触れていただければと願うからでである。愚作は一には“私”自方の救いとして書いているのであるが、一には“私”以外の人々の“救い”に“慰め”“励まし”に(とまでゆかなくとも、せめて縁日の露店商人をヒヤカシてゆく通行人のヒヤカシ気分を誘い出し、暫時、俗念を忘れて貰うだけでもいい)少しでもなれば―と念じて発表させていただいているのである。この連綿とした駄文はそうした意図によるものであるから、御叱正を求めながら書いているわけである。
★ところで、元へ戻るが、新しい天体三C―一四七が発見された同じ頃、今年の3月30日付読売朝刊は、長野県の野尻湖底を3月25日から29日まで発掘していた約二百人の調査隊が美事な成果をあげ、ナウマン象のほぼ完全な化石群と大ツノ鹿の骨片を旧石器片と共に同じ層から発見したことを伝えた。それによれば「十五、六万年前洪積時代になって三回目人によっては四回目とする)のリス氷期がそろそろ終ろうとするころ大陸から陸続きになった日本列島に続々とナウマン象や大ツノ鹿がやってきた。明治初年ドイツから招かれてきたナウマン博士によって発見されたところから命令されたこの象はやがて生活の場を求めて日本各地に移していった。それから十万年以上の時が流れた。リス氷期につづいて暖かい間氷期を経た日本は再びウル氷期のきびしい寒さのなかにおかれていた。もともと現在の中国東北部に住んで寒さに比較的強いナウマン象ではあったが、常食とする植物のやわらかい葉がだんだん乏しくなるのはたえられぬことだった。付近に針葉樹が密生し澄んだ水をたたえた野尻湖にまたとない住み家を見いだした彼らはここでかなり長い定住生活を送った。それは今から二万年前まで、数万年にわたって続いたのではなかろうか」とある。とすると、私らの先祖は二万年前に野尻湖でナウマン象と暮していたわけである。
★この野尻湖底の発掘に関連して一寸他に触れてみると、ソ連のモスクワ北方、約六百キロのオネガ湖の中にあるオレーニー島で数年前から新石器時代の人骨や人工の痕のある石片など多数発見され、約七千年前のものと推定されているそうである。そして北極圏に近いソ連コミ自治共和国では二万五千年―三万年前の旧石器時代の世界最北の住居跡が発見されたという。これは昨年10月5日付朝日新聞がAPNとして報道しているものだ。コミ共和国と野尻湖の遺跡とは同年二代だから二、三万年前の私らの先祖は拠を異にしながらどんな思いでどんな生活をしていただろうか、それを想うだけでも胸がいっぱいになる。
★化石といえば少年時代、富山県上市町眼目(故早川孝吉君の白萩逢沢へへゆく途中)で断崖へ露出したシジミ貝の化石をみつけ、中学校の博物標本にと二つ三つ採取したのをおもいだす。昔、低地の湖沼に生きていたシジミ貝が泥土に埋れて化石になったのはいいが、地殻の変動で山へ上ってしまい、崖くづれのおかげで太陽にさらされている。その生命と形骸との関連性を想って感慨に浸ったものである。今朝もシジミ汁を賞味したが富山県呉羽町北代の丘陵ににあるシジミヶ森貝塚を連想した。これは氷見市の朝日貝塚と共に石器時代の父祖がシジミ貝をたべてすてた貝殻の集積だ。その当時のシジミ貝も今朝たべたシジミ貝もそう違っていないが、眼目地内のシジミ貝の化石はもっと遠い大昔のシジミ貝の肉と貝殻と一緒になったままのものだ。一つの化石を介してその生物の生きていた頃を想うことは、泌々と現在の生身と照らしあわせて悠久無限へ自分を歩みださせることになり、現身の傍さと有難さを痛感させる。シジミ貝はなぜシジミ貝で終始し、その個性を貫き通さねばならぬのか。シジミ貝が魚や鳥や草木や犬であってはいけないのか。自分をシジミ貝におきかえてみると、哀歓が交錯する。
★さて、同じ貝の化石でも、昨年五、六両月気象庁観測船凌風丸が日本深海観測をした結果採取したネリネア(巻き貝)は一億二千万年ほど前の白亜紀に恐竜と共に生存していて現存していないものだそうだ。その貝の化石は北海道から三陸沖にかけての水深二千二百㍍の海山から採れたもので、千五百万年前この海底一帯に広大な陸地があってそれが陥没した―という推定に有力な手がかりを与えているという。前述のシジミ貝の化石は低地の湖沼から山へ上ったものだが、このネリネアの化石は陸地にいたのが陸地もろとも海底へ沈んで「海中の山」にじっとしているというわけだ。山で光をあびているシジミ貝の化石と、海底で暗黒に閉ぢこめられている巻き貝の化石と、互に呼びあい語りあっている―と思うとまた格別の感慨がわきおこってくるのである。
★化石の序だが、人間の化石で有名なのはライン川下流の小部落ネアンデルタール付近から発見されたネアンデルタール人(欧州人の祖)で、洪積世中期(30万年前~50万年前)に北京人類(東洋人の祖)やジャワ人類(蒙州土人の祖)と共に生きていたといわれる。人類が猿類と共通の祖先からわかれたのは第三紀の終り頃で百万年以上も大昔のことで、その場所はアジアの南方らしいという。
★また、ドイツのジュラ紀の地層中から発見された始祖鳥の化石は鳥類と爬虫類の中間のものとして珍鳥がられているがジュラ紀は中世代で一億五千五百万年前だということである。化石で最も古いのは十三億年以上の昔の前カンブラ紀の原始的な藻類や単細胞生物で、大森林が化石化して石炭になった石炭紀(二億九千万年前)には御存じの両棲類が地上狭しと繁昌していたが、二億六千万年前の二畳紀の終りには氷河が地球を被ったので生物の大部分が死滅してしまった―ということになっている。一片の石炭を眺めてみてもその石炭の背後にあるものを考えると、この無限大の時間と無限大の空間の交叉点にいる自分というものの存在その意義と価値、そして「生と死」について真剣にならざるを得ない。
★単なる一化石と着過せず、一化石を鍵としてものを生命という考えてゆくと、最後には科学だけでは解明できない壁につきあたるのである。その壁の向うへ抜けてゆけるのは哲学(思惟)であり、さらには宗教精神といっていいだろう。唯物だけでもいけないし、唯心だけでもいけない。両々相俟つべきであるこというまでもない。宇宙とか化石などに触れているのは「生と死」の問題への前提にすぎないのであるとされたい。
(39・5・26)

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 七・八月合併号 復刊46号 通巻146号 1964
中河与一研究特集 北日本文苑詩と民謡社